スペシャル無料講座「考える力をつける勉強法」― 幸せな大人になるためのゴールデンルート ― ⑥
4.「考える勉強」のもたらすミラクルな成果と感動体験。
短期間で飛躍的に成績が伸びる。
私自身の体験。
さて、ここで私自身の経験を少し語ってみたいと思います。私は中学受験で志望校に合格し、入学後中学3年の頃までは頑張って勉強をし、それなりに成績も良かったのですが、色々なことが重なって、高校生になって少し経ってからほとんど勉強しなくなってしまいました。
で、浪人生として予備校に通うことになったわけですが、何せ高校に入ってからの勉強ができていなかったので、なかなか思うように勉強が進まない科目があったんです。
それは、「物理」でした。
もう、これは自分にとって完全に鬼門のような科目になってしまっていて、気にはしていたものの、受験直前までほぼ手つかずのまま放置状態で、結局気付いたら入試一ヶ月前になっていました。
入試1ヶ月前の時点で、限りなく0点に近い実力。それが物理での私の状況でしたが、志望する大学の基準と他の科目の点数の推移から考えると、物理で80点は取る必要がありました。
多少の波はあったものの、他の科目は何とかなりそうな状況だったのですが、物理だけはどうにもならない。多分、0点とか。10点とか。そんな状況。物理がそんな状況なら、他がいくら良くても、さすがにカバーしきれない。
どうするか。
きっとここで私は考えたんだと思います。
どうするか。
当たり前ですよね(笑)。
物理10点とか、0点とか、そんなんですから。
そりゃあ、考えます。
でもね、考えても始まらないし、何か不思議と不安はあまりなかったんですよね。
そんな感じで、「物理、どうしよっかなぁ。どうしようもないよなぁ。でも、どうにかしないとなぁ。」と少し意識するような状態で過ごしていたとき、
ある日、予備校の教室の後ろの方に何かをドサッと置く音が聴こえたんですよね。
「石田くん、これ、私の友達の〇〇くんが以前使っていて今はもう使わなくなった参考書・問題集。欲しいものあったら、あげるって。」
突然参考書バザーならぬ、参考書差し上げますデリバリーがやって来たわけですね。
何やら色んな本が並んでいたわけですが、その中で、1冊気になる本がありました。「☐☐流物理の大原則」。なんかそんなタイトルの本でした。
とにかく、物理の本だったわけです。その本のキャッチコピーは、
「この本があれば、物理は1ヶ月でマスターできる。」
そんなような感じでしたね。
ぬわぁんだと?物理が1ヶ月でマスターできるだと?
そんなこと、できるわけ…あんのか?ホントに?
いや、でも、できるなら、ぜひ…
気付いたらその本を取っている自分がいましたね。そのときのワクワク感とドキドキ感は、今でも覚えています。
なんか、すごい本に出会ってしまった…気がする。
早速帰りの電車の中でその本を読み、空き時間を利用して、あっという間に読み終えました。
「なんか、この本、自分に合ってる気がする。」
そう思った私は、上巻だけだったその本の下巻を書店で購入し、下巻も瞬く間に読み終えてしまいました。
あれだけ分からなかった物理の問題が、その本の解説に従って解いてゆくと、不思議と簡単に解けていったんですね。
結局、その本の作者による物理の過去問演習の本も購入し、「この本だけで」ではありませんでしたが、「この本の作者の本だけで」という状態で、物理のテスト本番を迎えることとなります。
結果は、88点。
「よっしゃー!」ミスをしていなければ90点台だったはずなのですが、入試1ヶ月のあの状況を考えれば、もう、十分すぎる結果でした。
英語・数学・国語でも嬉しいミラクルが立て続けに起こり、志望していた大学に無事合格することができました。
これだけの奇跡を、一度に経験できたことは、その後の私の人生観をガラッと変えることとなりました。
生徒の体験。受験1ヶ月前に受験勉強を始めた、勇気ある少年の話。
大学入学後から、塾講師や家庭教師など様々な「教える」仕事に携わっていたわけですが、ある日家庭教師センターから1本の電話がかかってきました。
「先生、実は見てほしい生徒(Hくん)がいるんです。入試まで1ヶ月しかないんですけどね。今から8科目、仕上げないといけないんですよ。」
「えっ!?」
体験授業をしにHくんのお家に向かったところ、
「現在受験勉強は全くしていない状態なんですが、1ヶ月で何とか合格したいんです。」
とのこと。
これまで受験勉強をした経験がなくて、たった1ヶ月で8科目を仕上げる。
無理でしょ。
でも、無理だと言っている場合ではありません。まずはHくんの実力がどれぐらいなのかを見てみることから始めます。
まずは算数から実力を見てみたのですが、確かに受験勉強をやっていないと言っている通り、通常ならサッと解くべき問題で手こずっている様子が伺えました。
しかし、ヒントを出しながら導いていってあげると、自力で正答にたどり着くことができる場面もありました。
「この子はいける。ひょっとすると、本当に合格するかもしれない。」そう思った私は、授業後お父さんとお母さんにその旨お伝えしました。
そこから、「たった1ヶ月で8科目を仕上げる。」という、途方もないミッションに向かって、関係する全員がそれぞれの立場で全力を出し続けるということをゆきました。
家庭教師の時間と自学自習の時間、お父さんがHくんの勉強を見てあげる時間をうまく組み合わせ、絵を描くのが好きなHくんの興味に沿った形で超効率的な勉強法をお伝えしてゆきました。
教師である私がいくら盛り上がっても、肝心のHくんが乗り気でなかったならどうしようもなかったのですが、幸い本当に楽しみながら全ての勉強に取り組むということをしてくれました。
限られた時間の中で、いかにしてスピーディに基本を身に付け応用力も同時に伸ばしてゆけるかの勝負でした。
まさに、「考える勉強」と「身に付ける勉強」の両立を完全な形で展開できるかが問われている状況でした。
着実に実力が伸びている部分となかなか実力がついてゆかない部分があったHくんでしたが、とにかく受かりたい一心で入試本番までみんなで駆け抜けました。
入試前日に思わぬハプニングがあり、本気で焦っていたHくんでしたが、
入試本番ではちゃんと力を出し切り、見事志望校に合格することができました。
「合格おめでとう!」
「ありがとうございます!」
十分に実力を付けていたHくんの合格を確信していた私でしたが、指導者として素晴らしい経験をさせていただいた奇跡には、感謝の気持ちでいっぱいでした。
Hくんの指導を依頼してくださった家庭教師センターの方には、
「先生、本当ですか?素晴らしいです。まさに石田マジックですね。」
というお言葉をいただき、このような奇跡を目の当たりにし経験できたことを心の底からありがたいと思うばかりでした。
奇しくも、「入試1ヶ月前」という共通点でつながっていたHくんと私。
ひょっとすると、浪人時代のあの時に、入試1ヶ月前の時点で物理をあきらめてしまっていたら、友達の友達があの本を持ってきてくれなかったら、Hくんの家庭教師をさせていただくことも、ともに合格まで駆け抜けみんなで奇跡を体験し感謝することもなかったのかもしれません。
まさに、人生は小説よりも奇なり、です。
勉強がラク。ラクだから楽しい。
いかにしてラクをするか?堕落人間がたどり着いた、究極の勉強法。
Hくんだけでなく、不思議と私の元には、「入試直前なんですが、成績が芳しくないんです。何とかしていただけないでしょうか?」そのような依頼が寄せられることとなりました。
まあ、考えてみれば、家庭教師を依頼するということになる時点で、あまり勉強してきていなかったり、というお子さんである可能性はそれなりに高い、ということになります。
そういう子には、「入試直前だけどね、先生が何とかしてあげるからね。」なんてことは…言いません(笑)。
そんなこと言ったら嘘になりますからね。だって、実際に試験を受けるのは子どもさん本人なんですから。私が代わりに受けてあげられるわけじゃいですから、そんな約束はそもそも成り立ちません。
では、そういう子にはどう言うか?
「どんな事情があったにせよ、入試直前まで勉強をほったらかしにしておいて、直前になってやっぱり何とかしてください。これはいくら何でも虫が良すぎる話だよね。」という風に話をします。
自分自身を安心させてくれるはずの家庭教師が、いきなりドぎつい言葉がけをしてくるわけですから、当の本人はかなり面食らった状態になるんですが、
こちらがそこでじ~っと待っていると、
「まぁ、そらそうだわな。」
と、妙に納得した顔に変わるんですね。
で、そのタイミングで、
「で、どうするの?あきらめるの?それともやるの?」
とその子に問いかけます。
そこで「あきらめます。」って答える子にはまだ出会ったことがありません(笑)。
まあ、そこはちょっとカッコよく、決意に満ちた様子で、
「やります。」
と、こう答えてくれるわけですね。
この瞬間、この子の実力は飛躍的に伸びるんです。
なぜかって?
決断したからです。
本気の決意をしたからです。
人は本気の決意をするとき、まさにその瞬間、能力・才能・可能性がボーンと引き出されます。
ですから、本気のコミットメントをしてもらう。
一体誰の受験なのか、一体誰の勉強なのかを、自ら気付き、宣言してもらう。
これって、大変なんですけどね、実はここを乗り越えた後は、案外楽なんですよね。
だって、長い期間背負って来た何か余計な重荷とか余分な力みとかそういうものが全部取れて軽くなるわけですからね。
で、ここからの勉強はね、もう方法論とかそういうことよりも、とにかく本気の覚悟で進んでゆくわけですからね、ある意味最強。うまくいくに決まってる、いや違うな、何が何でもうまくいくように流れを持ってゆける状況に自ずとなっていくんです。
これはね、究極の、いわば極限状態に置かれた人間のポテンシャルを見ることができる瞬間なんですよね。
あれだけ勉強サボりまくっていたのに、どうしたの?なんか、できる人みたいになってるじゃん。周囲の人はそう思うかもしれませんが、その通りなんですよ。実際、できる人になるんですね。
そして、この極限ハイ状態とも言うべき状況から何とかして合格してゆくお子さんっていうのは、その後の人生においても、とてつもない底力を発揮できるようになって、自らの目標を着実に達成してゆくんですよね。
リミッターを外す。これは指導者自身がまずそれを経験している必要がありますね。自分が経験していないことは人に教えられないですからね。
ですから、リミッター外しを何度か経験していて、他人がリミッターを外すお手伝いに興味がある人、こういう人が、生徒のリミッター外しを一緒にやってゆける人ということになりますね。
「先生、算数って面白い♪」
まあ、こんな感じで色んな生徒さんを指導してまいりましたが、中には変わったお子さんというか、ちょっと驚くようなことを言ってくれる子もいるんですよね。
例えば、入試がもうそこまで近付いて来ているのに、苦手分野・苦手なタイプの問題がまだまだ残っているような場合。
それなりに緊迫した授業をこちらがしている最中にね、何の前触れもなく、急にとてつもなく楽しそうな笑みを浮かべて、
「先生、算数って面白い♪」
こう言ってきた男の子がいましたね。
「へ?」
こんな感じですよ。こちらはね。
「はぁ(あぁ)、ふぁんふぅが(算数が)ふぉもふぃろい(面白い)のね。ふぉっかふぉっか(そっかそっか)。ふぁんふぅが(算数が)ね。」
拍子抜けしたこちらも、何かもうイケる気がしてくるからこれまた不思議ですよね。
そんな風に、気合が入っているのは先生だけで、生徒の方はいい形で力が抜けていたりもする。
どこまで行っても、授業にしろ、受験勉強にしろ、生徒と教師が共同で作り上げてゆくものなんだ、ということに気付かされる瞬間ですね。
勉強が苦手な大人は、どう勉強する?
さてさて、ここまでは主に子どもたちにとっての勉強のお話をしてきたわけですが、ここらあたりで、大人にとっての勉強という話も少ししてみたいと思います。
大人にとっての勉強ということですが、基本的には子どもにとっての勉強を何ら変わるところはないと思います。
ただ、1つ言えることは、「子どもの頃からの癖が、そのまま大人になってからの勉強に反映される。」ということでしょうか。
つまり、凝り固まっている形で、癖がものすごい、ということはある程度言える気がいたします。
こんな生徒さんがいらっしゃいました。社会人になってからもう一度勉強をし直したいと。で、勉強はもともとそんなに好きな方ではなく、苦手意識があって…
でも、勉強はしたい。
こういう場合、勉強というものへのイメージをガラッと変えることから始めるのが大切ですね。で、ちょっとでも進歩したのなら、それを大いに喜べるかどうか。こういうことも大事です。
もともと大人になってからもう一度腰を据えて勉強に取り組もうとしているだけで、十分素晴らしいことなわけですから、できないことに意識を向けるよりも、できること、できるようになったことに意識を向ける。このことが子ども以上に大事になってきますね。
ただ、自分自身の癖とは、向き合う必要があります。癖は偏りを生み、偏りは失敗を生むからです。
例えば国語力に自信がないという場合でも、ちゃんと社会に出て働いているわけですから、一から十まで何もかもがダメというわけじゃない。
そうではなくて、どこか一部が、書くなら書く、そういう部分に自信がない。こういう状態になっていたりする。
じゃあ、どうすればいいのか?
今まで書いて来ていないわけです。言わば書くときの筋肉をほとんど使っていなくて、肉体トレーニングで言えばある筋肉はものすごく発達しているのに、違う筋肉は皆無だったり。そういうアンバランスが形作られている。
どうするのか?
偏りを取るしかないですよね。ムキムキのところはそのままでいいから、ヒョロヒョロのところ、そこに意識を向けてみる。
で、自分自身が苦手だと思っているいちばんの部分は、実は苦手ではなかったりするんです。そうではなくてその周辺部に隠されているところ。ここに真の苦手が潜んでいたりします。
ここにアプローチできれば、長年の癖も、凝り固まっていたことによる痛みや不快感も、いい形で取れていったりしますね。
まあ、なんだかジムのパーソナルトレーナーみたいな話になって来て、勉強の話じゃない雰囲気ですが(笑)、実際、スポーツと勉強は相通じる部分がかなりあると感じています。
ある意味、勉強をスポーツ的に捉えてみるときもあった方が、色々なことが見えてきたりするもんなんですよね。
事実、私は「体育の先生みたい。」って言われたこともあるぐらいですから(笑)、頭のことを教える際に、心であるとか、体であるとか、そういうトータル的な視点に立つことの重要性は、いわゆる普通の先生よりは協調する傾向にあるかもしれません。
思考力を伸ばしたいのなら、まず体力を付けた方が早かったりしますからね。
不安を解消したいのなら、体を動かせばよかったり。
自信を付けたいのなら、まずはゆっくり休んで心をリラックスさせることが大切だったり。
子どもの場合、頭と体がうまい具合に連動していたりするんですが、大人の場合その連動性がグラグラしているがゆえに、もう一度その連関を取り戻す作業が必要になってきます。
自分のしたいことが、「したいタイミングでしたいように」できるようになる。
クリエイティブに生きる♪ということ
さて、このブログシリーズもそろそろエンディングに差し掛かっている、というところなのですが、勉強と創造性というテーマでお話をしたいと思います。
そもそも勉強において、創造性はどれぐらい引き出されるのか、ということですね。
これはもう、「その人次第。勉強のやり方次第。」ということになります。
子どものときの創造性と、大人になってからの創造性。同じ部分と違う部分がありますよね。
伸び伸び育っている子がクリエイティビティを発揮するのかと言われれば、そうとも言えるしそうでないとも言える。
そうすると、そもそも「クリエイティビティ」とは一体何なのか、ということになって来るわけですが、
ここでこの「クリエイティビティ」というものを、創意工夫する力と捉えた場合、そこには何やら自由な雰囲気、伸び伸び自由に羽を伸ばしている雰囲気が出てきます。
しかし、クリエイティビティには無から有を生む力、ゼロから1を生み出す力を含むのだ、と考えてみると、そこには案外不自由な状況、自分の思い通りにゆかない厳しい環境下でポッと生まれてくる何か、得体の知れない、でもものすごい力と可能性を秘めた新しい何かが想起されたりします。
では、創造性を自ら育てクリエイティブな生き方をしてゆけるようになる環境とは、どういうものなのか?ということですが、これは一定の制限と一定量のストレスが条件となって来そうです。
そうなってくると、ここで面白いことに気付きます。いわゆる「創造性を育む取り組み・働きかけ」というものは、果たして本当に、真の意味の創造性を引き出す取り組みになっているのか、ということです。
例えばテニスを例に取った場合、世界のトッププロを目指してゆくのなら、創造性を発揮したプレースタイルというものが必須になるわけですが、そこで必要になってくるのは創造性を何かこう、無理やり引き出そうとして働きかけるということよりも、その子が創造性を見せてくれたときに指導者がそれを否定しないことの方が遙かに大事なわけです。
勉強においても、全く同じことが当てはまります。確かに何らかの刺激が触媒となって創造性が引き出されることも中にはあるかもしれませんが、やはりそれよりも大切なのは、子どもたちが勉強において、あるいは勉強じゃなさそうで実は勉強になっていることをし出したときに、それを否定せず黙って見守る大人の目線がそこにあるかどうかの方なんですよね。
こんなことを言ってきた大人の方がいらっしゃいました。「先生、子育てでいちばん大事なのは、大人が余計なことをしないこと、子どもの邪魔を大人がしないことですよね?」
それに対して私は、「う~ん…」となってしまいました。もう、「う~ん…」となるしかなかったんです。限られた時間の中での会話だったこともありましたし、その方とどの程度分かり合えるか、ということもありましたし、
大人の役目は邪魔をしないことか…いや、違う…なぁ。
邪魔しないことなんて、案外簡単にできるもんです。だって、見なきゃいいんですから。無視しとけばいいんですから。こんなことはそんなに難しいことではありません。
そうではなくて、何かこう、関わりたいんだけど、その関わりが干渉にならないように、関わりたいという気持ちの奥にある優しい気持ちはそのままで、その気持ちを慈愛の気持ちでそっと見守ることをするようにする。
この微妙で繊細な心の動き・体の動きこそが、子どもたちの創造性を育むことにつながってゆく、私たち大人が大切にすべき働きかけなのではないでしょうか。
「一生の財産」とは一体何なのか。
私自身中学受験を経験していますし、中学受験の指導もして来ているわけですが、小学生の頃にいわゆる勉学というものに励んだ時期があったことのどこに成果を見出すについて語るならば、
一般的に言われている、「今頑張っておけば、後で楽になれる。今苦労をしておけば、その苦労が必ず報われることとなる。」ということに対し、反対するつもりはありませんが、賛成するつもりもありません。
確かに、中学受験で培ったものは一生続く財産だと言えるでしょうし、苦労して志望校に合格した経験は、後の人生で大きな実りをもたらしてくれることも事実です。
しかし、どうもそこには違和感がある。つまり、何か良いことを期待して取り組むとき、その取り組みは果たして中身のあるものとなるのだろうか?ということです。
というのも、人が何かに取り組むとき、それはその取り組む何かそのものに価値を見出せばその何かはとてつもない宝物を途上でもたらしてくれるかもしれないが、取り組んだ結果何が得られるかに焦点が合ってしまうと、その途上の道はいわば通過点に過ぎず、「早く着かないかなぁ。」と、ただひたすら無為な時間を我慢することになってしまうだろうからです。
そのようにして、絶えず未来にばかり意識が向いてしまうと、肝心の「今」を感じ取る心の余裕も物理的時間的余裕もどこかに消し飛んでゆくこととなるんですね。
そのように絶えず先を急いでいるような状態では、身に付くものも身に付かないだろうし、体験できたはずのかけがえのない瞬間も、訪れたことに気付きすらしないという悲しい事態になってゆきます。
人生において何がかけがえのない財産なのか、ということですが、1つ言えることは、長きに渡って、できることなら未来永劫ずっと続いてゆき、場合によってはそこにさらに別の価値が加わって、どんどん育ち大きくなってゆくような、そんなものこそ真の財産と呼べるのではないか、ということです。
だとするのなら、勉強においても、現れては消えていってしまうような、そんな一時的・刹那的なものに価値を見出すのではなく、もっと大きなもの。大きな視点で見渡してみればその途方もない価値に目が眩んでしまいそうになるような、そのようなものにこそ価値を見出してゆく。
具体的には、知識ではなく力。結果ではなく、経験。未来ではなく、現在。
その場限りの知識は、時が経てばやがて消えてゆきますが、勉強を通して培った力は、大人になってからもさらに成長させることができます。
結果にばかり目を向けると、その過程でやって来るかけがえのない経験には意識が向きませんが、経験にちゃんと目を向けることができればそこに隠された一生モノの宝物に気付くことが可能になります。
未来にフォーカスし過ぎることは過度の緊張と焦りを生み、向かっていたはずの未来に結局たどり着けないことにもなりかねないですが、現在に適度なフォーカスを当てることができたとすれば、向かっている未来にちゃんと到着することはもちろんのこと、その過程で思わぬ副産物が生まれ、ご褒美として与えられるということも往々にしてあります。