スペシャル無料講座「考える力をつける勉強法」― 幸せな大人になるためのゴールデンルート ― ⑤
3.そもそも勉強って何のためにするの?机上の勉強とリアルワールドとの密接なつながりについて。
(1)なぜ勉強するのか?「勉強」とはいったい…?
人は一体いつから「勉強」というものをするようになったのでしょうか?一体どんなきっかけで「勉強」に目覚めたのでしょうか?あるいは、気が付いたらいわゆる「勉強」をしていたのでしょうか?
おそらく人は、「なぜ?」と問うたとき、勉強の世界に一歩足を踏み入れたのだと思います。なぜなら、勉強とは基本的に「なぜ?」という問いに対する答えを探求するものだからです。そして、その「なぜ?」という問いは、知的好奇心というワクワクするプラスの感情、または純粋なつまりプラスマイナスゼロの感情、あるいは何かがうまくいかないことに起因するマイナスの感情など、様々な感情とともに発されるものであったことでしょう。
いかなる社会的義務やいかなる社会的制約が今日ほど多くなかった時代においては、その「なぜ?」という問いに基づいた勉強はおそらく、自分の存在の全てをかけて取り組むような、やりがいと生きがいに満ちた状態で進んでいったのかもしれません。
しかし、時代が進むにつれ、人は様々な制約やしきたり・義務といったものに取り囲まれ、「勉強」とはいつの間にか「やるもの。やるに決まっているもの。やると決まっているからやるもの。」というような、均一的・等質的・義務的なものに成り下がっていったように思われます。「自分の夢や目標を達成するため。」というと、一見その勉強は中身があるかのように錯覚しがちですが、言い換えればそれは、「好きなものを手に入れるために、嫌いなものを我慢する」という形式の、ある種の取引のような側面が否めません。
そんな中、今日において勉強とは?と改めて問うてみる。そうするとまず、「今日において」という部分は、とりあえず湧きに置いてみたくなります。で、残ったものはというと、「(古今東西)人類にとって勉強とは?」ただ、この問いはどちらかと言うと、教育界に身を置く人たち、あるいは教育制度を定める主体に向けられた問いであるような気がしてきます。
そこで、このように問いを変えてみます。
「私にとって、勉強とは?私にとって、学びとは?」
これなら、人類皆に向けられた普遍的な問いであるような気がいたしますね。
私にとって、勉強とは?私にとって、学びとは?
ある人にとっては、学校の宿題をやることであり、
ある人にとっては、塾の問題集を解くことであり、
ある人にとっては、ドキュメンタリー番組を興味深く観ることであり、
ある人にとっては、将棋ゲームをすることであり、
ある人にとっては、スポーツクラブでバーベルを持ち上げることであり、
ある人にとっては、友達と楽しくおしゃべりをすることであり、
ある人にとっては、一人静かにお茶を飲むことであり…
どんなことでも、勉強と呼べるし、どんなことも学びになり得る。
そう、人生そのものが学びであると言われるように、昨日の自分よりも今日の自分よりも明日の自分と、常に進歩発展を望む心があるならば、そこには勉強が存在し、学びが起こっている。
つまり、勉強とは、学びとは、外的経験・集合的経験であると同時に、内的経験・個人的経験であるということ。
学校や塾という枠にはまってしまうと、ここら辺りのことがゴッソリすっ飛んでしまいがちではありますが、何かこう、疲れてしまったとき、義務感に囲まれ、不安に苛まれてしまったときなどは、今考えてみたようなことに思いを馳せてみると、案外気持ちが楽になったりするものです。
勉強してもいいし、勉強しなくてもいい。
学んでもいいし、学ばなくてもいい。
他人にとっての勉強は、私にとっての勉強とは少し違う。
だから、そもそも「勉強しなさい。」とは、なかなか言いにくいものなのですね。だってその「勉強」って、何のことなのか、何を指して「勉強」と呼んでいるのかが曖昧で可変的・流動的なわけですから。
親も楽になって、子も楽になる。
ちょっと肩の力を抜いて、「ところで、勉強って何のことだっけ?」から始めてみるのもいいかもしれませんね。
(2)机上と現実。
机の上の勉強というものが、現実の生活をより豊かにより充実したものにするために存在しているのなら、机の上の勉強は机上にとどまるべきではありません。
理科の時間に生き物の学習をしたのなら、図鑑をずっと見ているのも楽しいかもしれませんが、そこはやはり野山に出かけ、実際に生き物を見て触れて感じてみる。
社会の時間に歴史の勉強をしたのなら、過去の出来事を知識として学んで終わらせるのではなく、「現代ならどうなのか?」「現代とどうつながるのか?」を日々の生活の中で少しの時間でもいいから考えてみる。
算数の時間に倍数の学習をしたのなら、この倍数というものは家の中に存在していないか、街中のどこかに見つかりはしないか、ちょっと目を凝らして観察してみる。
国語の時間に物語文の読解の勉強をしたのなら、そこで勉強したことが展覧会に向けて絵を描く場面で役立ちはしないか、と考えを巡らせてみる。
机上の勉強が現実世界とちゃんと結び付きを持ったとき、その勉強はもはや単なる机の上の狭い勉強ではなく、大きな現実世界の中でで応用が利く生きた勉強となってゆきます。
ただ、机の上の勉強は狭い勉強かと言うと、必ずしもそうであるわけではありません。
星座の学習をするとき、教科書の中に星たちが存在しているかもしれませんが、同時に学習をしている子どもたちの心の中、イマジネーションの世界の中に存在しています。
この世でいちばん大きいものは人間の内面世界であると言われるように、机上の勉強がむしろ外側の現実世界よりも遙かに広大であると言うことができます。
英語の勉強をするなら、テキストの中に内容が存在していると言うことができるかもしれませんが、同時に勉強をしている子どもたちの思いがふくらみ、将来の夢がとてつもなく広がってゆくのなら、机の上の勉強は目の前の現実の世界とは比べものにならないぐらい大きなものだと言うことができるのです。
さらに、こんなこともあるかもしれません。
国語の読解の時間に読んだ文章に感銘を受け、大本の本を書店で買い一気に読んだところ、長年理解できなかった自分にとって大切な人の気持ちがスーッと理解でき、その人との関係が一瞬にして良好なものになったのなら…もはやそれは机上の勉強と現実の世界とは密接不可分、渾然一体となっていることを意味します。
ここまで来たなら、息をするかのごとく気付いたら学びが起こり、机上と現実とがうまく連携しながら、理想的な形で勉強と人生が進んでゆくでしょう。
(3)数学・算数は、何のため?
中学・高校の数学とそこへの橋渡しとも言える小学算数。数学と算数は、一体何のために勉強するのでしょうか?
学校でいい成績を取って希望の学校に合格するため。
それもいいでしょう。全科目のバランスを取るためには、数学・算数も無視することはできないですからね。
様々な問題を解く中で、思考力を養うため。
それもいいですね。数学・算数で培われる思考力は、国語や英語・理科や社会などありとあらゆる科目に共通の土台だと言うことができます。
図形の問題が好きだから、とにかく図形だけやる。
それもいいと思います。まずは好きなこと、興味のあることから取り組んでみる。好きなことや興味の湧くことは多くの場合、得意なことに昇華してゆくものです。
絵を描くのが好きだから、綺麗に絵を描くために、数学や算数の素養を高めておきたい。
それも素晴らしいですね。図工や美術・芸術と数学・算数は密接なものですから、数学や算数の世界にも美しさや心ときめくものを感じ取ることができそうです。
単純に数学・算数が好きだから。
それもいい。とってもいいですね。何か意図や目的があってする勉強もよいですが、ただただ好きだからやる。それって最強最高かもしれませんね。
(4)国語を学ぶ、意外な理由。
次は国語です。国語は算数と双璧を成す主要科目と言うことができるはずですが、私の経験則上あまり重要視されないことが多いです。
「日本語が分かれば、日本語の文章も分かるんだし、文章が読めていれば問題も解けるわけだら、国語は特別勉強が必要なわけではないよね。」
こんな風におっしゃる親御さんは結構いらっしゃいますね。ひょっとするとその方はそんな感じでずっと国語が得意だったのかも知れませんが…
問題はお子さんの方なんですよね。お母さんやお父さんが国語が得意だからと言って、お子さんも得意だとは限らない。そして、少し厳しいことを申し上げると、お母さん・お父さんが国語が得意だと思っていらっしゃるのは、国語の一部を学習したに過ぎないからかもしれません。国語の全体像、国語という科目がカバーする広~い広~い世界を知ったとき、ひょっとしたらご自分の国語力に自信をなくすかもしれないんですよね。
どうしてこのように少し厳しいお話をするかと言うと、お母さん・お父さんが国語が得意、あるいは得意だと思い込んでいるご家庭の場合、かなりの確率でお子さんは国語が不得意、いや、国語が嫌いなんですね。
なぜなんでしょう?
これは、想像してみればすぐ分かることなんですが、お母さん・お父さんにとって当たり前のことをお子さんができない場合、そのご家庭ではどんな会話が繰り広げられるでしょうか?
「えっ⁉こんなことも分からないの?こんなの、文章読めば書いてあるじゃない。書いてあることをそのまま聞かれていて、聞かれたことに答えるだけなのに、どうして分からないのか、全く理解できない。」
このような会話が延々と繰り返されているわけなんですね。こんな状況で、お子さんは国語、好きになれると思います?無理ですよね。
で、ここからはさらに厳しいお話かつ大事なお話になるのですが、そもそも国語という科目を学ぶ目的って何でしょう?
漢字や言葉・文法といった基礎的な日本語の力を伸ばすため。
それもあるでしょう。
言葉を使って文章の形で書かれたものの内容を、しっかりと理解できるようになるため。
それもありますよね。
あるいは、自らが思い感じたことを文字媒体によって自在に表現する力を付けるため。
それも確かにあるでしょう。
人それぞれ、色々な目的を持って国語という科目を勉強するのだと思いますが、私が国語の授業をするときに、いつも生徒たちに言うことがあるんですね。
それは、
「国語という科目は、相手の気持ちを理解できるようにするためだよ。」
ということです。
もう、お分かりですね。
国語があまりよく分からなくて、国語が苦手で、それでも何とか必死になって勉強しようとしているお子さんに対し、「どうしてこんなことも分からないの?」と、悪気はないのでしょうが、心無い言葉をかけてしまう、お母さん・お父さん。
「私は国語が得意だから…」
本当にそうでしょうか?
ご自身にとって大切な存在であるはずのお子さんの気持ちを理解できず、配慮が足りない言葉を日常的にかけてしまっているお母さん・お父さんは、そのお子さんにとって、「国語が得意なママ・パパ」と映っているでしょうか。
本来、人と人が円滑にコミュニケーションできるようにと、考え出されているはずの国語。
その国語が扱う「言葉」というものは、傷ついた子どもたちを勇気づけ、元気づけることもできますが、
大切なわが子の心を、気付かないところで日々痛め付ける刃となることもあり得るのです。
ですから、ここで原点に立ち還ってもう一度考えてみることが大切です。
「私たちは、なぜ国語を学ぶんだろう?」と。
そこで出て来た答え如何によっては、長年国語が不得意で国語が大好きだったお子さんが、「国語大好き!」と、胸を張って堂々と試験会場に向かうようになることだって可能なのですから。
(5)「考えること」は実は好き。
「自分の頭で考える」ということは、その人の「生き方」そのもの。
お子さんのご家庭にお邪魔して学習指導をしていると、「この子、あまり物事をよく考えていないんですよね。」そんな風に話される親御さんがいらっしゃいます。
それを聞いて、「えへへ。」という形でバツの悪そうな感じになるお子さんもいらっしゃいますが、「お父さん・お母さんに僕の/私の何が分かるっていうんだ?」という顔をなさるケースが多いように思います。
どうしてでしょう?親子なのに、どうしてかくも分かり合えないのでしょうか?
それに対する答えは、それこそ星の数ほどありそうですが、ここでは1つだけ。
「お互いにとって、学びと成長になる組み合わせだから。」
こうとらえてみると、全然分かり合えなかった親子が、少しは分かり合えるようになるのではないでしょうか?
つまり、「家族なのに、理解し合えないのはおかしい。分かり合えなんて信じられない。」ではなく、「家族だからこそ、理解し合えなくて当たり前。だってそういう組み合わせだから。家族だから、分かり合えないのが通常運転。分かり合えたらお祝いしよう。」という考え方にチェンジしてみる
そうすると、あら、不思議。あれだけ鬱陶しいと思い合っていた家族のメンバーが、なんかとてつもなく愛おしくてかけがえのない人に思えてきます。
元来、人はどんなときに「考える」ということをするかと言うと、それも色々な答えがありますが、1つの答えとして、「自分にとって思い通りにいかない状況に直面したとき。」なんですよね。そういうとき人は、様々な角度から自分なりの答えを見つけ出そうとし、その過程で頭をフル回転させることになる。
好きな人ができたとき、デートに誘ってすぐOKをもらえるなら、何の苦労もないですしさほど考えることもないでしょうが、なかなかOKをもらえないことが続いたら、考えますよね?「一体どうしたら、OKをもらえるんだろう?」って。
で、色々と創意工夫を凝らしてようやくデートOKとなったら、それはそれは嬉しいもんです。その現実を、そのゴールに向かってあれこれと考えるプロセス。それは苦痛でも何でもなく、むしろ喜びでありワクワクですよね。
旅においてトラブルはつきものですが、トラブルを何とか乗り越えて無事帰宅したのなら、旅の途中に起こったトラブルは、もうトラブルでも何でもなく、「ネタ」ですよね。失敗談・笑い話のネタですね。
人生という旅をともにする家族においても、それは当てはまります。
毎日ともに過ごしているからこの人のことはよく分かっている。確かにそうかもしれませんが、そうでないかもしれませんよね。
答えを先に出してしまったのなら、その答えに合わせた形でしか物事が見えなくなってしまいます。
しかし、同じ日は二度となく、同じ景色は二度とないように、同じ人も二度とないのではないでしょうか?
万物は流転し、人もまた変化し続けます。
制限時間のあるテストなら、このあたりで答えを、と早めに答えを出すことも必要でしょうが、
人生はまだまだ続きます。人の営みも、続いてゆくのです。
ですから、早急に答えを出してしまうのではなく、答えを見定め、答えに対して自分自身を開いてゆく。
そうすれば、分かり切っっていると思っていたご家族の意外な側面に出会え、また1つ発見と感動が生まれるかもしれませんね。