スペシャル無料講座「考える力をつける勉強法」― 幸せな大人になるためのゴールデンルート ― ③

1.「考える勉強」は、必要か?暗記勉強がもたらす5つの弊害

(1)覚えることが膨大なので、勉強が苦痛になってしまう。

覚えること多すぎでしょ!苦痛をもたらす恐怖の暗記地獄。

例えば、中学受験の受験生を例に取ってみましょう。算数を勉強しているときに、「全てを暗記によってなんとかしようとする子」っていうのはやはり一定数存在するんですね。で、そういう子は一体どういう風に勉強していくのか、っていうことなんですが、とにかく「考える」ということをしたくないと思っているので、考えずに全てを暗記していこうとします。

例えば食塩水の問題を解いているとき。同じ食塩水の問題の中でも色々なパターンの問題が存在します。そしてそれぞれ解き方が少しずつ違ってくるわけです。で、その解き方を全て暗記しようとしたら…これはもう大変です。1つ目の問題につき、解き方を暗記し、2つ目の問題についても解き方を暗記する。3つ目の問題につき、解き方を暗記しようとしたときには…もう1つ目と2つ目で暗記したことは忘れてしまっていたりするわけです。そうすると、また1つ目の問題に戻って1からやり直しをし、2つ目の問題もまた暗記し直しをする。で、今度こそ大丈夫だろうということで3つ目の問題に取り掛かると、3つ目の問題の解き方はもうすっかり忘れてしまっていると(笑)。もう、横で教えていたお父さんも、「ハァ~。」と、一気に脱力してしまうことになります。

とにかく、全然勉強が進まないわけです。これが入試直前などだったりすると、もうパニックですね。いかに短時間で1点につなげていくか。その勝負をしてるときに、覚えたことを片っ端から忘れていくような勉強の仕方では、勉強しているのに点数が上がらない。全く合格につながっていかない。こうなってくると、本当に大変です。理解すれば5分10分で済むところを、1日中同じことの繰り返し。ひたすら同じ種類の問題を解きまくるという、もう苦痛以外の何物でもないですね。それでも、「受かりたい。何とかして合格したい。」そう思うからこそひたすら暗記していく。

でも、よくよく考えると、残念ながらそこで暗記したことが入試本番で出るとは限らないんですよね(笑)。ひょっとしたら、食塩水はその年の入試では、まったく出ないかもしれない。とすると、一生懸命1日中暗記したこと、お父さんが「ハァ~。」となりながらも子どもさんと一緒に勉強したことは、全部無駄になってしまう。本当は、食塩水ではなく旅人算の復習をすべきだったのに、そこまで全く手が回らないと。そういうことになってしまうわけです。

ですから、例えば受験生なら入試直前。そういう、本番前の本当にギリギリの状態になって初めて、「暗記勉強では限界があるんだな。」ということに気づくわけですね。でも、本番ギリギリにそのことに気づいても、もうどうしようもない。遅すぎる。ですから、こういうことにならないようにするために、いかに早い段階から考える勉強の重要性に気付けるか。ここがポイントだと言うことができます。

受験する中学によっては、受験科目が多い場合もあります。算数・国語・社会・理科・英語・音楽・図工・家庭科・体育…全てが暗記なら、もう、頭がおかしくなってしまいますね。インプットに次ぐインプット。暗記に次ぐ暗記。考えなくていい。とにかく覚えろ。理屈を言うより、まずは記憶だ。やっているうちに分かってくる…そ、それって、ほ、本当ですか(笑)?

確かにね、算数において、例えば割り算の筆算の仕組みをしっかりと理解するまで実際の筆算をしない、これは少々頭が固い勉強の仕方と言えそうですよね。この場合はやはり習うより慣れよで、実際に手を動かして割り算をやっていくうちに、「なるほど、こんな風になっているのか。」と、感覚的に経験的に、だんだん仕組みが理解できるようになってゆく、という勉強の仕方もありだと思われます。

しかし、しかしです。同じ算数において、例えば方陣算の仕組みを全く理解せず、「とにかくこういう問題ではこう解くんだ。これはもう、覚えるしかない。」と、このように勉強してゆくことが続くと、残念ながらもはやこれは勉強ではなく「暗記の罰ゲーム」とも呼ぶべき、子どもたちにとっては苦痛以外の何物でもない時間となってしまいます。頑張って暗記したにも関わらず、ちょっと問題を変えられただけで途端に分からなくなってしまうような、算数の知識。力。これでは受験本番で一体どうなってしまうのか、不安で不安で仕方ないということになります。

国語において。「こういう場面では、こんな感情になる。これはもう、暗記しておこう。」もちろん、そういう勉強が必要な場合もあるでしょう。しかし、本当にそういった勉強がいつもどこにおいても成立するのかと言うと、それは甚だ疑問だと言わざるを得ません。やはりそれは、時間がかかるかもしれないし、完全には理解できないかもしれないけれど、物語文なら主人公の気持ちになるような疑似体験をどこかでできる機会を探ってゆく。登場人物の心情が理解できるようなタイミングが訪れるのを、じっくり待ってみる。こういう視点が大切になってきます。

社会・理科についても、その他の科目についても、そうです。とにかく机上にとどまることはできれば避けたい。頭の中の世界だけで、実生活に根ざしていない勉強は、その場限りの空しい時間になってしまう。空しい時間は空しい結果を生むことになる…ここはやはり、子どもたちが自らのイマジネーションとクリエイティビティを可能な限り発揮して、楽しい気持ちとともに確かな実感と現実感のある理解ができるよう、内実を兼ね備えた真の勉強をすることができるよう、我々大人が子どもたちを導いてゆく。これこそが、古き良き時代に村の長老が村人たちに対し、村に綿々と受け継がれていた叡智を伝えていったのと同じように、中学受験に向かって家族全員で頑張ってゆく21世紀のこの時代における考える勉強の存在意義だと、私には思われます。

子どもはやがて大人になる。いやな勉強は、いやな仕事に。

さて、ここまでは受験生、特に中学受験生を例にとってお話をしていましたが、ほぼ同じことが社会人が勉強するときにも当てはまります。

例えば法律の勉強している場合。なかなか、勉強したことが身に付かない。例えば、憲法について勉強してるときに、人権の歴史について学んだことが公共の福祉の勉強をしているときにまた出てきたりする。その時に、「ああ、また忘れてしまった。先生、なかなか覚えられないんです。やってもやっても、すぐに忘れてしまうんです。記憶力がなくって…」そういう風にお話をされる方がいらっしゃいますが、実際は記憶力の問題ではなくて、理解力あるいは読解力の問題であることがわかったりするわけなんですね。で、理解力・読解力というものは、実は算数の力、先ほど出てきた算数あるいは数学の力と密接不可分です。ですから、大人になっていざ法律の勉強しようっていう時に、国語の復習あるいは算数の復習数学の復習、この辺の復習をやり直さないと先に進めない、っていうことがあったりするわけです。

そうすると、本当に大変ですよね。何か勉強したいことが出てきたときに、その前提となる、土台となる力から鍛え直さないといけない。これは本当に、気の遠くなるような話です。それでも食らいついて何とか一から勉強し直してやろう、とそういう意気込みがある場合は何とかなります。でも、そんなタフな人、鉄人みたいな人ばかりではないですよね(笑)。心が折れてしまうということはもちろんですが、実際現実問題として、時間がない。短期間で結果を出さないといけない場面、ていうのがあるわけです。そうすると、もう諦めるしかなくなってしまう。何か小手先でどうにかごまかしてなんとかなったようなふりをするしかなくなってしまいます。

そのようなことにならないようにするには、どうしたらいいでしょうか。それはやはり、「三つ子の魂百まで。」と言われるように、小さい頃からの積み重ね。子どもの頃から、考え方・勉強のやり方・行動の仕方というものを、しっかり考えてゆく。その場しのぎにするのではなくて、ちゃんと先を見据えて自分自身の実力をつけていく。そういうことをいかに子どもの時から大人になるまで、積み重ねて行けるかどうか。それこそが、勉強が楽しくなるか嫌になってしまうか、仕事が楽しくなるか嫌になってしまうかを決める大きなポイントとなると言えるのではないでしょうか。

子どもはやがて成長し、大人になります。「とにかく覚えろ。」の世界で勉強してきた子は、「とにかく言われたとおりにこなせ。」の世界で仕事をするようになるのでしょうか?決してそうではないと願いたいものです。大人になってからは、大抵の人にとって、いかに働くかは、いかに生きるかに直結しています。仕事じゃなく趣味が人生。それもいいでしょう。しかし、仕事が趣味なら?趣味が仕事なら?

子どもたちの中には、「早く大人になりたい。大人になって、仕事がしたい。」という子もいます。そんな子は、一体今、どういう未来を見つめているのでしょう?不可能なことなど存在しないとも思える子ども時代。子どもの可能性をいかにして引き出し伸ばしてゆけるか。私たち大人一人一人に問わていると、私は考えます。



暗記学習の弊害
受け身の勉強

(2)勉強する意味が分からないので、受け身の勉強になってしまう。

自分の頭で考えなければ、ツバメの子と同じ。

「自分の頭で考える」っていうことをしないと、とにかく全てが受け身になってしまいます。勉強の内容はもちろんのこと、勉強をすること・そもそも勉強する意味について全く考えていないと、一体何のために自分は今勉強しているのか、がまるでわかっていない状態になります。そうすると、次何を勉強したらいいのか、どのように勉強したらいいのか、何をどういう順番でどれぐらいの時間配分でどう勉強していくのか、全く分からない状態なので、全てを人任せにする。

以前指導していた生徒の中に、こういう男の子がいました。「お母さん、次、何の勉強したらいい?」既に与えられたメニューをこなした上、さらに勉強しようというのですから、感心・感心…本当にそうでしょうか?

親が作った計画に沿って、親が与えるタスクをひたすらこなしてゆく。中学受験って、こうやってやるもんでしょ?確かに、そういう面があることは否めません。中学受験において、PLAN・DO・CHECKを子どもが完璧にこなしている…そんなことはほとんどないと言っていいでしょう。やはり大人である親が、その子を産み育ててきた両親が、その子に合ったメニューを考え、与えてあげる。そう、その子に合った食事の献立を考え、食卓の上に並べてあげるのと同じように。こういうことは、ある程度必要だということは間違いないです。

しかし、そのテーブルの上にある食事を目の前にして、その子が、「ママ、次、何食べたらいい?」こう聞いてきたらどうでしょうか?ちょっと心配してしまいますよね。そこはもう、好きに食べてくれたらいい。野菜から食べるのが理想かもしれないけれど、まずはお肉をガブッといきたいなら、まあそれはそれでいいだろう、と。バランス良く栄養をとってほしいけど、楽しくおいしく食べているなら、まあ、多少偏りがあっても、仕方ないか。食事をする場面においては、親はこんな風に思うはずです。

ところが、です。ひとたび勉強になると…「ママ、次、何勉強したらいい?」こう聞いてきたわが子に対して、何ら疑問に思うことなく、「次は、これ。終わったらこれ。余裕があるなら、これ・・・」というように、際限なくメニューを与えてゆくお母さんは珍しくありません。

こういったことに慣れきってしまった子を見ると、まるでお母さんツバメが取って来た餌を大きな口を開けて待っているだけの子ツバメのように思えて仕方ありません。「次、何の勉強したらいいの。次、僕がやる課題をちょうだい。」と、まるでツバメの子が、親ツバメが持ってくる餌を、口を開けてただひたすら待っているだけのような状態。パクパクパクパクと、与えられる課題を口を開けて待っているだけの状態ですね。

もちろん、美味しい美味しいと言って食べているのなら、楽しい楽しいと言って勉強しているのなら、それはそれでいいのかも知れません。しかし、こういうことをずっと続けている子は、よりによって受験直前期にある日突然、「ところで、誰の勉強だったっけ?」ということになってまるで抜け殻のような無気力状態になってしまったりするんです。

どこまで行っても、お母さんお父さんがお子さんの代わりに勉強してあげるわけにはいかないんですよね。

「計画はこっちが立てて、メニューもこちらが考えてあげてるけど、実際に勉強しているのは子どもなんだから、いいじゃないか。」そう、思うかもしれません。

しかし、どこからが勉強なんでしょうか?参考書や問題集を開くところからでしょうか?問題を解き始めるときからでしょうか?それとも、「何を勉強するか?何を勉強したいか?」考えるところからでしょうか?

「そんなもん、特に中学受験においては、親が計画を立てて、メニューを考えてあげなければ、子どもに任せっぱなしでは受かるもんも受からなくなってしまう。」確かに、分かります。しかし、いつまでそれをしますか?どこまでそれをしますか?受験直前までですか?あるいは、受験当日まででしょうか?

何を勉強しているのか、どこがどうなっていて、今やっている勉強はなぜする必要があるのか、どのようにこの勉強をしたらいいのか、そういったことが何も分からない状態で、お子さんの勉強は進んでゆくでしょうか?与えられたメニューをこなしてゆくだけで、本当にその勉強は身に付いてゆくのでしょうか?合格という目標に向かって、しっかりと土台を作ってゆくことが果たしてできるのでしょうか?前向きな気持ちで勉強を継続し、「もうちょっと頑張ってみよう。」と、自分の限界をちょっとずつ越えながら実力をUPさせてゆくことが可能なのでしょうか?

このあたりをよく考えてゆくと、答えは1つではないということが分かってきます。この子の場合。この時期の場合。この科目の場合。この難易度の場合。この体調の場合。この成績の場合。ありとあらゆる要素によって、答えは変わってゆきます。

ですから、1つの答えにこだわるのではなく、状況に応じて、時期に応じて、その他諸々に応じて、答えを変化させてゆく。

そういうことをしてゆくと、ある日突然、お子さんの方からお父さんお母さんに答えを示してくれたりすることが出てきます。そうなってくれば、また違ったステージ、また違った体験が、展開されるはずです。

指示待ち人間は、やる気も湧かない。

これは、そこそこやる気がある状態であればまだマシなんですが、やる気が下がってきたときは、本当に大変です。だって、自分で考えませんから。目の前の勉強がどういう意味を持つのか、その意味がわかっていなければ集中力も持続しません。どこに向かっていくのかが分かっていないので、粘り強さ・根気強さ、そういうものも出てくる余地がありません。「とにかく褒められたい。とにかく解放されたい。」そんな浅い動機・ゆる~いモティベーションで、勉強を進めていくことになります。その結果、当然成績その他の結果においてもムラが生じることになり、ますますやる気が湧かないようになっていくわけです。


(3)やる気が湧かないので、学力がつかなくなってしまう。

主体性なき勉強は、死んだ勉強。

自ら進んで勉強する主体性を持った勉強。こういう勉強ができない人たちは、一体何のために勉強しているのでしょうか。テストで良い点数を取るため?でも一体何のために?そのあたりのところがぼやけてしまっていると、勉強はどんどん面白くなくなっていきます。

で、面白くないものはできる限り早く済ませようとしますよね(笑)。身が入らない。実力につながっていかない。その場かぎりの勉強になってしまう。生きた知識ではなく死んだ知識。どのように活用するのかもわからず、どういう場面で力を発揮するのかも全くわからず、ひたすら知識を詰め込み続けると。無理がありますよね。キャパオーバーを起こしてしまいます。全くつながりのない断片的な知識が、頭の中でそこかしこに転がっている。こういう状態を続けていくと、「本当の意味での実力」「本当の意味での学力」というものは永遠につかないままで終わってしまいます。

受け身の読解と、主体的な読解。

国語という科目は、その中でも読解は、苦手意識を感じる人が結構いらっしゃる科目です。で、これは小学校の頃から、「読解と言えば答え当てっこゲームでしょ。」と、そういう捉え方をしてしまっている人が、実に多いです。そんなわけないやん(笑)。「要は問題に答えることができればいいんでしょ。選択肢問題で正解できればいいでしょ。抜き出し問題で正解を抜き出すことができればいいんでしょう。」そういう勉強の仕方をしてきてしまっていると、長い時間をかけて国語読解の勉強をしてきたはずなのに、まるで実力がついていないっていうことになったりします。

受け身の読解と主体的な読解。両者は全くもって別物です。例えば大学受験において。国語読解という科目を、「単なる受験科目の1つ」として位置づけてきた人と、「真の実力・本当の意味での学力を身に付けるための土台」として位置づけてきた人とは、雲泥の差です。国語という科目は、なかなか実力がつきにくい。実力がつくまでに時間がかかる。その通りです。その通りだからこそ、早い段階からちゃんとした勉強・ちゃんとした勉強方法を理解しておく必要があります。

早い段階からちゃんとした読み方・ちゃんとした理解の仕方ができていれば、例えば試験直前などといった時期に、教師による適切なアドバイスのもと、実力を比較的短期間で大きくアップさせる、ということが可能になります。ところが、そういう積み重ねの勉強が全くない場合は、お手上げです。間に合いません。「基本となる読解力そのもの」を短期間でアップさせることなどできないからです。

そういう意味でも、早い時期からちゃんとした勉強・ちゃんとした読解の仕方を心がけ、身に付けていくこと。こういうことが、極めて大切です。



受け身の勉強と主体性のある勉強
基礎力がないと…

(4)基礎力がないため、勉強しても成績が上がらない。

どんなレベルでも、暗記では無理。

「うちの子は、目指しているレベルがそんなに高いわけではないので、考える勉強は必要ないんではないですか。暗記する勉強によって何とか結果を出していけば、それでいいんじゃないですか。」そういうふうにおっしゃる方がいます。でも、それは大きな誤解をなさっています。なぜならどのレベルを目指すにしても、必ず「暗記では無理。」という場面に遭遇するからです。

例えば中学受験において。算数です。とにかく例題を暗記する。同じような問題が出てきたときはできるわけですが、少しでもひねられると、途端にわからなくなる。それでも目指すレベルが高くは無いから偏差値的に低い学校を目指しているから何とかなるだろう、そういうふうに考えて勉強してきていたりする。

でも残念ながら、どんなに低いレベルの学校であったとしても、必ず思考力を要求する問題が出されるわけですね。そしてそれは、そんなにレベルが高い問題ではなかったりする。つまり、ちゃんと考える勉強してきた人にとってみれば、なんてことは無い問題だったりする。教科書レベルの簡単な問題が入試問題で少し形を変えて出題されたりすると、全く考える勉強してこなかった人は、とっても難しく感じます。「こんな問題やったことがない。」そんな風に言ったりします。

でも実は、学校でやってるんですね(笑)。やっているのにやったことに気づいていない。「解法のパターンの暗記こそが算数の勉強なんだ。」と思っている人にとっては、超難問になってしまうわけです。でも、出題者にとってみれば、教科書レベルのちゃんと学校で習っている内容を出しているわけです。そうすると、いわゆる基礎力がある子と、点数は取れるけれども基礎力がない子で大きく差がつく問題だと言うことができます。

で、こういう問題が意外と、そんなに偏差値が高くない学校で出題されたりするんですね。その時気づきます。「ああ、解法のパターンの暗記だけでは、どこの学校も受からないんだな。」ということに。これは、算数だけではなくいわゆる「暗記科目」捉えられがちな社会や理科についても当てはまります。どんなに覚えていても、考える力がないと得点できない問題が出題されるんですね。そうすると、「社会だけは得意。理科だけは得意。だって暗記が得意だから。」と言いたい人でも、そうは言えなくなくなってしまう。そういうことになっていきます。

ですから、「どんなレベルでもやはり、暗記だけでは通用しないんだ。」このことを肝に銘じておくことが、何より大事なのではないでしょうか。

「先生、これどういう意味ですか?」

いろんな子を指導している中で、気づくことがあります。それは、結構多くの子が、「先生それどういう意味?」とちょっとキレ気味に(笑)、少し怒ったような調子で聞いてきたりすると言うことなんですね。そんなとき、私はこう答えるようにしています。「いやいや、それを聞いとんねん。さっき言ったことを理解する力を試す問題なんだよ。」と。そうするとその生徒はハッとしたりするわけです。

どうしてそんな発言が出てきてしまうのでしょうか。それは、どんな力を試す問題なのか、どんな力が必要となる科目なのかが、まるでわかっていないということがあるからなんですね。算数でも数学でも理科でも社会でも、前提となる読解力・国語力。これがもちろん必要です。その読解力・国語力・理解力が備わっていないと、一体自分がどこでつまずいているのかが曖昧なまま、なんとなく丸暗記していて何となく勉強を終わらせてしまう。そういうことにつながります。それでは残念ながら、成績は上がっていきません。

自分が一体どこについては理解していて、どこについては理解していないのか。それをはっきりと区別して、どの辺を重点的に勉強していくのか、しっかり把握した上で勉強することがやはり大切ですね。


(5)フラストレーションがたまり、勉強をやめたくなる。

多くの子が陥る、「魔のスパイラル」とは?

ここまで見てきたように、暗記勉強ではとにかく実力がつきません。成績が上がりません。成績が上がらないと、周りが例えばお父さんやお母さん先生そういう人たちが、口出ししたくなります。「お前このままで大丈夫なのか。ちゃんと勉強しなさい。」ところが、言われた本人は、勉強してるわけです。本当は勉強にはなっていないんですが。でも、本人にとっては勉強しているつもりでいるわけです。暗記勉強であったとしても、勉強しているのに、「勉強しなさい。」と言われる。。「やってるよ。ちゃんと勉強やってるよ。」「いやいや、ちゃんと勉強やってるなら、こんな成績にはならないだろう。お前やる気あるのか。」そういうふうに言われて、やる気がアップする人はいないですよね。で、勉強する気が起きなくなる。気晴らしにゲームなんかをしてみたくなる。そうすると、「お前ゲームばっかりしてないで、ちゃんと勉強しなさい。やる気ないならやめてしまえ。」そうすると、それまで言いたいことを我慢していた方も、さすがにプッツンきてしまって、「わかったよ。もうやめたる。やめたらいいんだろ、勉強。」そんなことにまで発展してしまったりするわけです。

でも、よくよく考えると、本当は勉強したい。ちゃんと成績も伸ばして目標を達成して合格する。そういうことに向かっていきたい、と皆が思っている。にもかかわらず、とんでもない悪循環・魔のスパイラルに陥ってしまう。誰も望んでない結果・誰も望んでいない結論に到達してしまう。そういうことになってゆくことに気づくんですね。

そんなことにならないようにするためにも、やはり早い段階からちゃんと「考える勉強」をする。ちゃんと安定的に結果を出し続けられる勉強をする。今だけではなく先を見据えて、自分の実力がちゃんとつく勉強の仕方をする。こういうことがとても重要なのではないでしょうか。



魔のスパイラル