スペシャル無料講座「考える力をつける勉強法」― 幸せな大人になるためのゴールデンルート ― ②

考える力をつける勉強

0.はじめに


(1)「自分の頭で考える時代」。どう学び、どう考える?

なぜ私たちは、「自分で考える力」を失ってしまったのか。

こんにちは、教育家の石田栄嗣です。本日から「考える力をつける勉強法 ―幸せな大人になるためのゴールデンルート― 」と言うタイトルでお話をしていきます。

さて、早速内容に入っていきたいと思うのですが、「自分の頭で考える時代」とは一体どういうことでしょうか。自分の頭で考える。当たり前じゃないか。と思うかもしれません。でも、私たちが日頃生活している時実際に、仕事や家庭生活友人との関係・プライベート・趣味・ボランティア活動など様々な場面において、一体どれほど自分自身の頭を使って実際に自分で考えるということができているのか、っていうことを考えてみてください。そうすると、案外自分自身の頭で考えるというよりはむしろ、人が考えたことを学んだり参考にしたり吸収したりすることに忙しかったり。

例えば、息子や娘に社会科の宿題について、お父さんが意見を求められたとき、「それは、こうこうこうで、こうだから、こうなんだよ。」と、昨日ニュース特番で仕入れたばかりの知識を、さも自分で考えたかのように語る、とかね(笑)。「お父さん、それ、昨日ニュースでやってたやつ~!」ってお母さんがすかさずツッコミを入れるという…まあ、それで家族が和むのであれば、それはそれでよいとは思いますが…

仕事の会議など真剣に考えるべき場面においては、ちょっと事情が違ってきますよね。「○○くん、この点についてはどう思うかね?」と専務に話を振られたときに、昨日見たニュース特番でコメンテーターが言っていた意見がふと頭をよぎるけれど、「ダメだダメだ。部長はあの番組のファンだから、絶対観ているはず。ここは自分オリジナルの意見を言わないと…えーっと…。」となっているうちに時間が経ってしまう。待ちきれなくなった専務が、「■■部長はどんな意見を持っているかね?」と話を振ると、なんと部長はあのニュース特番でのコメンテーターの意見を堂々と言うという…「ぶ、部長~~~それ、昨日ニュースでやってたやつ~!!!」(笑)

まあとにかく、大人である私たちでも、自分自身を振り返ってみると、やはり「自分の頭で考える」ということがいかに難しいか、いかにできていないかということに気付くところはあるのではないでしょうか。

どうしてでしょうか?それは、私たちが「自分の頭で考える方法、自分の頭で考える学び方、勉強法」につき、教わってこなかったからです。各科目の内容なら教わってきました。学校において、あるいは塾において。成績の伸ばし方・点数の取り方・合格する方法も教わりました。塾において、あるいは予備校において。より専門的な知識も教わりました。大学において、あるいは資格試験スクールにおいて。実際の仕事で使う知識も教わります。職場において、あるいはその分野のセミナーにおいて。

でも、自分の頭で考える方法は?自分らしく、自分のオリジナリティを発揮しながら考えてゆく方法は?一体どこで教わるんでしょうか。学校でも塾でも予備校でも、大学でも。職場でも、セミナーでも。教わりません。少なくとも、私自身は教わった記憶がありません。そう、私たちは忙しすぎるんです。テストで点数を取ること、成績をUPさせること、合格することに。入学すること、卒業すること、就職することに。昇進すること、収入をUPさせること、転職・再就職することに。気づけばもう、「自分で考える」ための頭は疲れきり、ひどい場合にはもう、「昨日までの人生の惰性あるいは延長線上」でしか、ものを考えられなくなってしまっていたりする、というのが私たち大人の現状ではないでしょうか。

今の時期、「時代」が要求してくる力とは?

しかし、残念ながら時代がそうはさせてくれません。「先行き不透明。混迷の時代。」と言われてから久しいですが、日々その傾向は強まる一方です。一瞬一瞬気づいていること。意識していること。無意識でインプットしたことを吐き出すのではなく、瞬間瞬間、自分の頭で意識的に考えること。そういうことがますます要求される時代となってきています。

また、「情報化社会」と言われて久しい今日。ますます日々、膨大な量の情報が飛び交い続けています。2022年頃から急速にAIが一般化され、情報を調べ、情報を発信することすらAIに任せることができるようになりました。

こんな時代に、人間である私たちは、どう学び、どう考えるべきでしょうか?「自分の頭で考える」とはどういうことなのでしょうか?

これについて私は考えます。今こそ私たちは、「学びとは何なのか?」を取り戻さねばならないと。本来学びとは、人と人との間、あるいは動植物と人間との間、人生で起こる様々な出来事や経験と人間との間で起こってきたことです。であるならば、たとえAIによって出力された情報であったとしても、その背後には必ず人間がいるということを忘れてはいけません。

機械化・AI化・グローバル化が進めば進むほど、そこで考えるべきことは、「人間であり日本に住む者である私」です。人生において、日々の生活において、学びの主体が誰であるのかが忘れ去られた状態では、もはや学びとは呼べない。

「自分の頭で考える」とは、思考をするときに、その人らしさ、その人の個性、その人の生まれ育った環境や人生における様々な経験がそこに乗っかっているということです。自分を生み育ててくれた両親や家族・先生・友人たちとともに過ごしてきたかけがえのない時間が、そこに反映されるということです。「これだけは譲れない。」という強い思いと深い感動とともにあるものであり、過去・現在・未来とつながってゆく、決して途切れることのない人生の営みとともにあるものです。そのように思考するとき人は、自分とは何者なのか、自分はどうありたいのか、自分はどうしたいのか、どんな人生を歩みたいのか、という、最も根源的かつ本質的な部分に触れているのです。

勉強についても同様のことが言えます。私たちはいかに学びいかに考えてゆくべきか。大人たちも迷っています。悩んでいます。でも、そんなことは知らずに、子どもたちは日々勉強しているのです。子どもたちは、どのように勉強してゆけばよいのでしょうか。何か新たに勉強してゆくことを増やすべきなのでしょうか?もちろん、それもよいでしょう。大人に教わったり、自分自身で勉強したり。

ここで私は、「あくまでも、勉強する内容は変えずに、学び方・勉強のやり方を変えることによって、自分の頭で考える力をつける。」ということを提案したいと思います。学校の勉強を通して、考える力をつける。受験勉強を通して、各種試験の勉強を通して、考える力をつける。そして成長して大人になった暁には、自分自身が大人として「いかに考え、いかに生きてゆくか。」を子どもたちに伝えてゆく。そういう循環が生み出されることを本気で目指しています。

そのために、私たち大人がすべきこと。今すぐ考えるべきこと。そこをスタート地点として、話を進めてゆきましょう。

「考える力」、それは長い時間をかけて熟成させてゆくもの。

「私たちは一体どのようにすれば、自分の頭で考えられるようになるんだろう。」「どのように学んでいけばそのような力がつくんだろうか。」こういう風に考えてみると、あることに気づきます。それは、「自分の頭で考える力」は一朝一夕で身に付くような簡単なものではなく、長い時間をかけて少しずつ少しずつ培い熟成させていくものである。そう、まさに味噌や醤油といった発酵食品にとって、熟成のプロセスが極めて大事であるのと同じように、考える力も熟成のプロセスが大切。ですから、味噌や醤油を作るときに「電子レンジでチン♪」では無理なのと同じように、考える力をつけてゆこうというときも、簡単お手軽に素早く、という方式では無理がありますよね。

現在自分の頭で考えることが100%できている人であったとしても、最初は自分以外の人から学びそれを実践してゆくことから始まり、その中から自分独自のオリジナリティーを少しずつ少しずつじっくり時間をかけて開拓していった結果、今の境地にたどり着いたんだということ。そのことに気づけば、そのような境地に自分自身もたどり着きたい。そう考えたときに、いかに学びいかに考えてゆけばいいか。それに対する答えが、おぼろげながら浮かび上がってきます。

「にょわぁぁあ~♪♪♪」

激動の時代、変化の時代、自分の頭で考える時代。確かなものが何もないように思えるからこそ、自分自身の頭で考えていく。どう考えればいいのかわからなくなるからこそ、徹底的に考えてゆく。これは古今東西、大人でも子どもでも同じです。人間が考える生き物である以上、考えるということは私たち人間に課された責務であると言うこともできるでしょう。

そのためにもまずは、自分自身について自分自身の人生について。そして家族・友達・学校・職場について。それから、社会・国家・国境を越えて地球全体。そういったことについて自分の頭でみんなが考えていく。そういう時代がやってきています。大人と大人。子どもと子ども。あるいは大人と子どもが一緒になって考えていく。そのことによって、今まで見えてこなかったこと・明らかにされてこなかったことが少しずつ見えていく。明らかにされていく。そういうことにつながっていきます。

毎日の生活の中で大人は子どもの言うことに耳を傾けてみる。子どもも大人の言うことに耳を傾け、関心を持ってみる。それだけで、今まで大人は大人の世界、子どもは子どもの世界として切り離されてしまっていた、そういう部分がきちんとつながるようになります。そもそも大人と子どもでは、生きている論理が違う。基盤となる言語・発想自体もすべて違います。ちっちゃい子どもなんて、「きゃぁぁあ~!!!「きぇぇぇえ~♪♪♪」これですよ。これで通じ合ってます。もう、しゃべる言葉、言語からして違う。これを大人が普通に接ししていたのでは、通じ合えない。分かり合えない。だから、大人の側が子どもの側に寄り添ってゆく。一緒になって、「にょわぁぁあ~♪♪♪」とかやっていくことによって、初めて通じ合うことができる。まあ、たまに引かれますけどね(笑)。まあ、引かれるぐらいでちょうどいいんではないでしょうか。大人が先頭きってアホになる。アホになるところを見せるからこそ、通じ合える部分がある。そうすると、何時間説教しても一切伝わらないことが、ものの数秒で子どもたちに伝わっていったりとか。そういうことが可能になってくると、私は思いますね。

これは大人と子どもだけでなく、男性と女性、若者と高齢者、雇う人と雇われる人など、ありとあらゆる人間関係においてあてはまるのではないでしょうか。こういう垣根を越えたつながり、お互いがお互いにちょっとずつ寄り添い合う。こういうことこそが、人それぞれのバランスにつながっていき、また人と人とのコミニケーション・何かをする際の多角的な物の見方・皆が納得しそれぞれの良さを引き出し合える関係づくり、そういうことにもつながっていきます。そのために私たちはどうまだ学び、どう考えるか。ここから話を進めていきましょう。


(2)勉強スタイルは、人それぞれ。悩んでいるポイントは…みな一緒(笑)。

百人いれば百通りの勉強スタイルがある。おそらくそうなのでしょう。本を読んで勉強するのが好きな人もいれば、動画を観て勉強するのが好きな人もいる。一人で黙々と勉強するのが好きな人もいれば、みんなで楽しく勉強するのが好きな人もいる。部屋の中で勉強するほうが身に付く人もいれば、屋外で体験学習をする方が身に付く人もいる。まさに百人百様。人の数だけ勉強の仕方が存在していそうです。

しかし、勉強において人は皆違うだけなのでしょうか?そうではありません。勉強において色々とつまずいていたり、うまくいかないことがあったり、悩みが生じていたり。多くの場合、人は同じところでつまずき、同じようにうまくいかない経験をし、似たような形で悩んでいたりするものです。

なぜでしょうか?一体どうして、人は皆同じようなこと・同じような形で失敗や悩みを経験するのでしょうか?それは、どのような失敗も、どのような悩みも、一定の「アンバランス」がそれをもたらしているからです。人は皆、精神的・肉体的・感情的にバランスが取れているとき、人生における様々なことについて、うまくいき充実した状態をキープできます。ところが、頭・体・心のバランスを失してしまうと、色んなことがうまくいかなくなってしまうのです。それが一時的なものであればよいのですが、幼い頃から長い時間かけてその状態が作り出されてしまっている場合、なかなかそういった状況から抜け出せず、原因に気付かないままずっと時間が過ぎていってしまうことも少なくありません。

もちろん、勉強についてもこれは当てはまります。何かこう、悩みが深くなってしまうと、「自分は何て特別で特殊な悩みを持ってしまっているんだろう?」と思ったりするものですが、誰かに相談してみたら、案外「同じような悩み、持ってたよ。分かるわぁ。」と言ってもらえて、拍子抜けしたりすることも。

そのとき、「お前に何でわしの悩みが分かるんじゃ?わしの悩みはわしにしか分からん。」となって心を閉ざしてしまう場合もあるでしょうが、「えっ?そうだったの?悩みとか全然なさそうに見えたんだけど…」っていう風に心がスーッと楽になることもあるでしょう。

まあ、そのあたりは何が正解で何が不正解ということはおそらくないですよね。

千差万別なようでいて、千編一律。一本調子かと思えば、千変万化。かくも人間とは不思議な生き物です。

私はこれまで、小学生・中学生・高校生そして社会人、実にいろいろな年齢のいろいろな世代の人たちに勉強を教えて来ました。来年まさに受験をする子たち。数年後に受験を控えている子たち。受験をするかどうかはわからないけれど、とにかく自分が本当にしたいことを、自分が心からやりたいと思えることを、望んでいることを見つけたい子たち。あるいは、仕事をしていて時間がない中、何とか自分の知識スキルを高めて目標を達成したいと思っている人たち。

みんなそれぞれの思いで、それぞれの動機を持ちながら、勉強に取り組んでいますが、悩んでいること・悩んでいるポイントっていうのはみんな一緒だったりする。つまり、「学んだ内容がなかなか身に付かない。すぐに忘れてしまう。」ということです。そういう悩みを持っている人は大抵、「自分は記憶力が悪い。」とか、「覚えたことをすぐに忘れてしまう。」とかいうふうに原因を解釈していたりします。

ところが、本当の原因は実際はそこにはなかったりするわけなんですね。というのも何かを勉強しているときに、その内容が基礎知識としてしっかり定着するかどうかは、その人の記憶力ではなく理解力思考力、つまり考える力にかかっているからです。この考える力をじっくり育ててゆけるかどうかは、やはり先ほどの「バランス」をうまく取ってゆく力があるかどうかにかかっています。

頭・体・心のバランスが取れていない人は、どちらかと言うと焦る傾向になり急ぎがちになり、なかなか考える力が伸びてゆかずに、やることがどんどん増えてゆく割には、思うように進んでゆかなかったりする。逆に、自分自身の全体としてのバランスが取れている人は、ゆったり悠々と構えた上で、必要なことを的確に選びながら考える力・考える勉強がじっくりできている。そういう人は、無理なく自然な形でいろいろな知識を吸収し、勉強したことを身に付けることができるようになる。ですから、まずは自分自身のバランスを取ってゆく力。そこから自ずと引き出されてくる考える力。こういった力をつけることこそ、自分が目指している結果、例えば受験なら合格。仕事なら昇進起業といった目標を着実に達成してゆく最大のポイントであると言うことができます。



悩んでいるポイントは皆一緒
急がば回れ

(3)急がば回れと言うけれど、回りながら急いでしまうのが人の常。

ところが実際には、例えば勉強なら、じっくり考える勉強ではなく、焦って考えない勉強。こういう勉強の仕方をしている人が、とても多いんですね。どうしてでしょうか。

それはやはり人間という生き物が、基本的には「楽して簡単に短期間で成果を手に入れること」を望む生き物であるからでしょう。そのために、いかに楽をするか。いかに手っ取り早く、簡単に成果が手に入りそうなやり方を選択するか。そこが落とし穴である訳なんですね。

勉強の場合、考えない勉強・単なる暗記に走ってしまう勉強は、どこにもつながっていかないからです。目先の点数は、目先の合格は手に入れることができるかもしれないですが、その先が見えてこない。未来につながらない。

もうね、クルックル回りながら、行き止まりまでまっしぐら(笑)。で、行き止まりにガーンって頭ぶつけて初めて、以前とまったく同じように、「おかしいなぁ。成績が頭打ち。なんでだろう?どうしてだろう?」と悩んだりする。いやいや、そこ行き止まりですよ。気持ちよく走ってきたかもしれないし、その道好きなのかもしれないですが、そこ行き止まりですよ。っていうことですよね。

何かを成し遂げたいのなら、焦りは禁物。ゆっくりじっくりが事を成す秘訣なり。誰もが一度は自分に言い聞かせたことがあることでしょう。近道など存在しない。一歩一歩大切に歩むことが、結局は素早くゴールにたどり着くことにつながるのだ。このように考えること、いや、考えようとすることは、日常的によく見られる光景です。

しかし一方で、何かを達成したいときに、そこに必ずつきまとってくるもの。それは、「時間」です。どんなによい方法に思えたとしても、時間通りに現実化できないのなら、それは夢物語と一緒だ。ゴールから逆算し、スピーディに効率的に達成できる方法こそ、賢者の道なのだ。こんな風な声も、ちゃんと心の中から聞こえてきますよね(笑)。

さて、これは一体どっちが正しいでしょうか?実はこれは、「どのように行動するか?」ということと、「その行動をしているとき、自分がどんな状態なのか?」を分けて考えないと、「訳分からん。」ということになるんですよね。

急がなければいけないときは、急がなければならない。8時の新幹線に乗らなければいけないときは、それはもう、間違いなく、乗らないといけないわけです。そのときに、「いや、9時の新幹線こそ、本来乗るべき新幹線なんだ。」そんなこと言っても、それこそ訳分からんわけです。

しかし、そのときの心の状態。8時の新幹線に乗るためには、急いで支度して、急いで出かける必要がある。でも、心まで急ぐ必要は?…ないんですよね。むしろ、心まで急いでしまっていたら、いつもなら一発で履ける靴下が何回も空振りしたり、朝っぱらからしなくてもいい夫婦喧嘩を「急いでる。」と言いながら延々としてしまったり。はい、それこそ訳分からん状態になってしまうわけです。

もちろんこれは、勉強や受験にも当てはまりますね。テスト直前になればなるほど、心ばかりが焦ってしまい、昔漫画であったような、足がもつれてしまっているような状態で走っている。自分ではものすごく頑張って走っているんだけど、思うように進んでゆかない。

こんなときは、ちょっとお茶屋さんに寄って美味しい団子でも食べて、お茶を飲んで一息つくことです。そうすれば、遠くの景色もよく見えるようになり、また頑張って一歩ずつ進んでゆく元気も出てくるというもんです。

本当に急ぎたいなら、まずは一息、一服。ゆっくり休んで心も体もリフレッシュしたなら、じっくり腰を据えて「考える勉強」も自ずとできるようになるものです。目先のことも、遙か遠い先も、どちらもしっかりと見ている状態。こういった目線の中で育ってくる「考える勉強」は、受験や仕事に限らず、人生において着実に目標を達成するために必要不可欠な要素だと言うことができます。

では、考える勉強はどのような形で必要になってくるのか。より具体的にお話をしていきましょう。


スペシャル無料講座「考える力をつける勉強法」― 幸せな大人になるためのゴールデンルート ― ①

目次

0.はじめに

(1)「自分の頭で考える時代」。どう学び、どう考える?

(2)勉強スタイルは、人それぞれ。悩んでいるポイントは…みな一緒(笑)。

(3)急がば回れと言うけれど、回りながら急いでしまうのが人の常。

1.「考える勉強」は、必要か?暗記勉強がもたらす5つの弊害。

(1)覚えることが膨大なので、勉強が苦痛になってしまう。

  • 覚えること多すぎでしょ!苦痛をもたらす恐怖の暗記地獄。
  • 子どもはやがて大人になる。いやな勉強は、いやな仕事に。

(2)勉強する意味が分からないので、受け身の勉強になってしまう。

  • 自分の頭で考えなければ、ツバメの子と同じ。
  • 指示待ち人間は、やる気も湧かない。

(3)やる気が湧かないので、学力がつかなくなってしまう。

  • 主体性なき勉強は、死んだ勉強。
  • 受け身の読解と、主体的な読解。

(4)基礎力がないため、勉強しても成績が上がらない。

  • どんなレベルでも、暗記では無理。
  • 「先生、これどういう意味ですか?」

(5)フラストレーションがたまり、勉強をやめたくなる。

  • 多くの子が陥る、「魔のスパイラル」とは?

2.ロボット人間とマニュアル人間。考えることを放棄してしまう、思考パターンとは。

(1)受験生を取り巻く、ある特殊事情。

(2)「キミ、だれ?」(笑)

(3)成績いい子こそ、実は危険。「○だけちょうだい人間」のたどる悲しい末路とは。

(4)気づかないと手遅れになる。「中間期末病」は、大人になってからも続く。

(5)ロボット人間とマニュアル人間。

(6)AI時代。「考える大人」として、社会を歩く。

(7)不登校の子。学校に通うことがゴールとは限らない本当の理由とは。

(8)「考えない方がラク。」って本当か?誰にも訪れ得る、ターニングポイント。

3.そもそも勉強って何のためにするの?机上の勉強とリアルワールドとの密接なつながりについて。

(1)なぜ勉強するのか?「勉強」とはいったい…?

(2)机上と現実。

(3)数学・算数は、何のため?

(4)国語を学ぶ、意外な理由。

(5)「考えること」は実は好き。

4.「考える勉強」のもたらすミラクルな成果と感動体験。

(1)短期間で飛躍的に成績が伸びる。

  • 私自身の体験。
  • 生徒の体験。受験1ヶ月前に受験勉強を始めた、勇気ある少年の話。

(2)勉強がラク。ラクだから楽しい。

  • いかにしてラクをするか?堕落人間がたどり着いた、究極の勉強法。
  • 「先生、算数って面白い♪」
  • 勉強が苦手な大人は、どう勉強する?

(3)自分のしたいことが、「したいタイミングでしたいように」できるようになる。

  • クリエイティブに生きる♪ということ
  • 「一生の財産」とは一体何なのか。

5.考える力をつける勉強法。ゴールデンルートにいたる5つの出発点とは。

(1)学校

  • 受験生こそ、学校の勉強をしよう!

(2)塾

  • リアル・オンライン。個人指導・少人数指導・集団指導。一体どれを選ぶ?
  • 塾の使い方。「第3の使い方」とはいったい何か?

(3)家庭教師

  • インプットとアウトプット。家庭教師の存在意義について。
  • 「問いに答える」ということ。「考える力」を引き出すための魔法の方法とは。
  • 自分に合った家庭教師を見つけるための5つのポイント

(4)オンライン動画コース

  • いつでもどこでも何度でも。
  • 観ているだけで「考える力」ってつくの?
  • 受験なのにふざけてる。ふざけてるのに、力がつく。

(5)完全自学自習

  • 自学自習は最初の形態であり、最終形態。
  • 自ら学び、自ら助く。
  • 自分の頭で考え、自らの可能性を全開にする。

立春と1年の始まり

 今日は立春ですね。旧暦において立春とは、春の始まりであり新しい1年の始まり。

 1年を72の季節に分ける七十二候において、立春の候のことばは、

 「東風解凍(とうふうこおりをとく)」

 東から吹く風(暖かい春風)によって、川や池・湖に張っている氷が解けてゆく。

 本来南から吹くはずの暖かい春風を「東風」と呼ぶのは、旧暦の七十二候が中国から伝わったものであることと関係しています。

 中国の陰陽五行思想においては、「春と東、夏と南、秋と西、冬と北」という対応関係があると考えられていて、春は東と結び付いているため、春風を東風と呼びます。

梅青空メジロ

東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花

   主なしとて 春を忘るな

菅原道真

現代における「学問」の意義とは?

 菅原道真が登場したところで、話を学問に移してゆきましょう。

 「勉強」という言葉はよく聞くけれど、「学問」という言葉を聞くことは少なくなってしまっている現代。

 現代において、学問はいかなる意味を持つのでしょうか?

 「自ら学び、自ら究めてゆく。」

自ら学ぶ

 テクノロジーがますます発達し、人間がしてきたことについて機械が取って代わる今日。自ら学んでゆくことの重要性はますます高まっています。

 人間にできることは何か?人間にしかできないことは何か?

 自分にできることは何か?自分にしかできないことは何か?

 自ら問い、自ら答えてゆくプロセスの先に、自分自身の学問があるのではないでしょうか?

1年の始まりに何を問う?

 人が1年の始まりにすること。

 それはきっと、どこまでいっても「問いを発すること」なのではないでしょうか?

 今年1年、どんな年にしよう?

 昨年できなかったことは、何だろう?

 なぜできなかったのか?どうすればできるようになるのか?

 受験をする人も、そうでない人も。

 勉強が好きな人も、そうでない人も。

 それぞれがそれぞれに対して、問いを発する。

 答えは…

 誰かが与えてくれるかもしれないし、自分自身で出すのかもしれない。

 すぐに出るかもしれないし、その場では出ないかもしれない。

 言葉の形でやって来るかもしれないし、日々の生活の中で経験としてやって来るかもしれない。

 自分自身のこだわりを大切にしつつ、「こうでないといけない。」という思い込みを、そっと外してみる日。

 今までの自分から自由になり、新しい自分と出会ってゆく。

 1年の始まりは、可能性に満ちています。

Dancing funny tigers

 

 

 

 

 

算数や国語で、勉強したことをすぐに忘れてしまいます。

覚えたことをすぐに忘れてしまうと、どうなる?

算数や国語において、勉強したことを忘れてしまうと、「せっかく時間をかけてやったことが、身に付いていない。」ということになってしまいます。

そうすると、なかなか先に進むことができないので、模擬テストや入試本番までに間に合わなかったり、身に付いていない状態で進んでゆくので、後で大量の積み残しを勉強し直さなくなったりしますね。

覚えたことをすぐに忘れてしまう理由とは?

なぜ、このような状態になってしまうのでしょうか?

いくつか大きな理由がありますが、そのうちの1つは、「ポイント(抽象的なまとめ)と具体例・具体的な問題がリンクしていない。」ということです。

これらがリンクしていないと、バラバラな知識をただただ詰め込んだ状態となるため、勉強したことを片っ端から忘れていってしまう事態となるのです。

算数と国語において、覚えたことを忘れないようにする方法

では、どのようにすれば、ポイントと具体例がリンクするようになるのでしょうか?

方法1

「具体例を見たときに、ポイントを思い出せるようにする。」

これができるようにするためには、例題・類題演習をする際に、ポイントを思い出しながらやるとよいでしょう。

その際、あまり欲張らずに、1つの問題につきポイントは1つと決めておき、1つが身に付いたらまた次の1つに進むようにしましょう。

方法2

「ポイントを見たときに、具体例を思い出せるようにする」

これができるようになるためには、「何が基本で何が応用なのか?」が分かっている必要があります。

そのためには、「簡単な問題から難しい問題へという順序を守ること」と、「簡単な問題・基礎的な問題を定着させることに8割の時間をかけるようにすること」が大切です。

以上2点をしっかり実行してゆくことにより、算数・国語において勉強したことをすぐに忘れてしまうことは少なくなり、勉強したことを定着させられるようになるでしょう。

さらに詳しく勉強の仕方を知りたい場合は、こちらです。

子どもをコントロールしようとする親

 

こんな方がいらっしゃったりします。

「うちの子、勉強しないので、うまくご褒美を与えて、何とか気持ちが勉強に向くように…」

このように思っていらっしゃる方は、自分自身が実は大きな代償を払っていることに気づいていません。

「◯◯をあげるから、◯◯をしなさい。」

人間は犬ではありません。
誰か他人の条件付けによって、自分以外の人間のコントロールによって何かをする、そんな風にはできていません。

親の言うことを子どもが聞くのだとしたら、そこには必ず理由があります。

「そうすることが、楽しいから。幸せにつながるから。成長できるから。」

いろんな理由があることでしょう。

その理由こそが行動を促す原動力であり、継続してゆくモティベーションとなってゆくはずです。

それさえあればいいはずなのに、なぜ、「ニンジン」をぶら下げる必要があるのでしょうか?

それは、子どもさんの本当の気持ちを確かめたとしたなら、親の期待が裏切られる、そう思っているからではないですか?

だから、肝心の部分からは目を背けさせ、ごまかしのニンジンをぶら下げる必要が出てくる。

子どもの人格を、子どもの人間性を無視し、大人の好きなようにコントロールしようとすれば、必ず後で大きなツケを払わされることになることでしょう。

それは、人間は人間だからです。

動物でもなければ、ロボットでもない。

いや、動物だって、ロボットだって、その存在には敬意を払うべきでしょう。

動物や植物、この地球に住む生命体にはそれぞれの存在意義があり、それぞれの「生きる理由」があります。

人間においてもそれは同様です。

個々人が生まれてきた意味。理由。存在価値。

そこの部分にしっかりと触れてゆけば、自ずと道は定まってきます。

我々大人にできることは、その道筋を見つける手伝いをしてあげること。

ちゃんと子どもたち自身の気持ちを確かめた上で、納得して進めてゆくこと。

そこで見えてくる世界は、ニンジンぶら下げ方式の世界とは、全く違うものになるはずです。

どちらを選択するか。

それは、私たち大人1人1人にかかっている。

私はそう信じています。