あけましておめでとうございます。

2024あけましておめでとうございます

旧年中は大変お世話になり、ありがとうございました。

今年は私の息子が中学受験に本格的に向かってゆく年であり、
私自身も年男として人生の大きな節目を迎えます。
これまで以上に家族全員で支え合い、家族みんなにとって最高の年としてゆきたいと思います。

ますますパワーアップし飛翔してゆく私たちのホームページ・オンラインコース・様々なコンテンツに、
どうぞご期待ください♪

あなたとあなたのご家族・ご友人・大切な人たちにとって、素晴らしい年となりますように。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

教育家 石田栄嗣

スペシャル無料講座「考える力をつける勉強法」― 幸せな大人になるためのゴールデンルート ― ⑦

5.考える力をつける勉強法。ゴールデンルートにいたる5つの出発点とは。

(1)学校

受験生こそ、学校の勉強をしよう!

これは私がよく受験生の生徒に対して言っていることです。

例えば、大学受験をする子の場合。現代文で国公立大学の入試問題、理由説明の問題などを解いているとき。「この問題はどうやって考えていったらいいか、説明してみて。」と言うと、大抵の子は小難しいことから順に説明しようとします。

ところが、その問題のポイント・考え方の出発点は、そんな小難しいところにはないんですね。そこで、「もっと簡単に考えてみて。基本に立ち返って。」とヒントを出してみます。それでも、やはり分からない。そこでさらに、「いちばん大事なことは、小学校の時に、学校で習っているよ。」とヒントを出してみる。それでも分からなかったりするので、「じゃあ、答えを説明してみようか。」と、説明すると…「なあんだ、そんなことだったのか。」ということになったりします。

そうなんです。大学受験の問題を解いているときに、「小学校の時に学校で習ったことが使えていない。」という事実。ここに立ち戻らないといけません。この時に、「そんなこと、分かってるよ。」となってしまうのではなく、「うわあ、こんなことすらできていなかった。」という自覚を持てる子は、伸びます。

同じことは、高校生の数学についても言えます。例えば場合の数。理解が不十分な問題についてやり直しをしているとき。「この問題、解答を見ながらでもいいから、解き方を説明してみて。」と言って説明してもらうと、まず前提となる中学数学。その理解がないことが判明したりする。で、その中学数学の内容を説明していると、今度は小学校の算数の理解がないことも判明する。

そうすると、高校数学の問題解説のために、小学校の算数まで遡ることが必要となってきます。これが1つの分野ならまだよいですが、複数分野についてこういう状態になっていると、ホント大変です。「小学校の算数も宿題で出しとくね。」と言うと、生徒は「えええ〜!?先生、それだけは勘弁してください。」と、懇願してくるような目になったりもしますが、無視します(笑)。だって、実力つかないで泣くことになるのが、いちばん辛いでしうから。そういう風に説明すると、大抵の子は納得してくれますね。



受験生こそ学校の勉強をしろ
塾

(2)塾

リアル。オンライン。個人指導・少人数指導・集団指導。一体どれを選ぶ?

塾にも色々ありますよね。リアルな塾もあれば、オンラインの塾もある。

個人指導もあれば、少人数指導もあるし、集団指導だってある。

一体どれを選べばいいんだろう?迷ってしまいますよね。

そんなとき、いい方法があります。

それは、「選ばない。」ということです。

何じゃそりゃ⁉

そう、何じゃそりゃの方法なんです。

つまり、全部試してみるってことですね。

昔、確か大学生だったときに、何かの本でこんなことが書いてあったことがありました。

「迷ったのなら、全部買っちゃえばいい。」

お買い物の話ですね。

靴が欲しいと思ったとき、「う~ん、この靴とこの靴。どっちがいいだろう?迷っちゃうなぁ。」

そんなとき、「どっちも買っちゃえばいいじゃん。だって迷ってるんだから。」

シンプルですね。スピーディですね。

即座に決められます。

迷う、ってことはどっちも欲しいんだから、どっちも買っちゃう。

とても合理的な方法だと思い、早速実行に移そうと思ったのですが、

私の場合、そもそもあまり迷わない質だった(笑)。

「もう、これしかない!」そう思うタイプでした。

ですから、あまりこの方法は使わずに終わったのですが…

時は経ち、結婚し…

妻が「この服とこの服。どっちがいいと思う?」

「どっちも買っちゃいなよ。だって欲しいんでしょ?」

そんなことを言ってる私がそこにいました。

そうすると、不思議となんか、妻の方が

「あ、やっぱりこっちにするわ。」

みたいな感じで、結局どちらにするか決まるんですね。

「どっちにしよう。」と迷っていたら一生決まらないかのように思えたものが、

「どっちも。」と迷うことをやめた途端に、なぜか即座に答えが出てしまうという。

これは結構不思議な現象ですね。

誰かが迷っているとき、隣で誰かが、「もう、早く決めちゃいなさいよ。優柔不断ね。」

と言う声が今日もどこかから聞こえて来そうですが(笑)、

そもそも人は迷う生き物ですし、

これまた学生の時分に読んだ本なのですが、人が何かで迷っているときは、無意識でどちらがいいのか情報を探している最中なので、思う存分迷えばいい、と。

こういう風に書いてあったものがありました。

「なぁんだ。そうだったのか。じゃあ、気の済むまで迷い続ければいいだけじゃん。」

こう思うと、不思議と肩の力が抜け、迷うことに対する抵抗感や罪悪感みたいなものがなくなったのを覚えています。

まぁ、元来あまり迷うタイプではないので、このアドバイスも結局はあまり使わずにいたのではありますが(笑)…。

ですので、塾を選ぶ、という場面においても、迷うのならとにかく全部体験してみればいいですし、ちょっと入会してみたっていいわけです。

で、何か合わないなぁ、と思えば辞めればいい。

おっ、これは続けられそうだぞ、と思えばそのまま継続してゆく。

やはり、塾などは体験してどう感じるか、そういう実際の感覚が最も大切ですからね。

着てみなければやはりどんな服なのか分からないですし、

食べてみなければどんなお米なのか分からない。

同じように、通ってみなければどんな塾なのか、それはやはり分からない、ということになるわけです。

ですので、迷うならずっと迷うのもよし、迷うなら全部選択してみるのもよし。

「唯一無二の正解」というものに固執しすぎないこと。

これが1つのポイントとなりますね。

塾の使い方。「第3の使い方」とはいったい何か?

さてさて、めでたく自分に合った塾を選べたとして、その選んだ塾をどう活用してゆくか。その話をしたいと思います。

塾なんだから、まずは勉強教えてくれるんでしょ。

そうですね。まず、塾の使い方1番目。「勉強を教えてもらう。」

これ、正しい使い方ですね。

で、次は?

分からないこと、教えてくれるとか。

そうですね。つまり勉強を教えてくれるわけですね。

あっ、そうか。じゃあ、勉強以外のことも色々教えてくれるとか?

そうですね。つまり、何かを教えてくれるわけですね。

あぁ、そうか。じゃあ、教えてくれる以外…あっ、場所を提供してくれる。

そうですね。塾の使い方2番目。「自分にとって居心地がいいと思う空間を提供してもらう。」

これはリアルの場合でも可能ですし、オンラインでも可能ですね。

その場所、その場に身を置くだけで、何かこう、頑張れる気がしてくる。何かこう、やる気が湧いてくる。大事なことです。

で、もう1個。大切な使い方があるんですよね。塾については。

んー、友達作り?

そうですね。つまり居心地の良い…

あぁ、そうか。じゃあ、保護者説明会をしてくれる。

そうですね。つまり居心地の良い空間で…教えてくれる…

あー、そういうこと。じゃあ…何か安心するとか?

その通り!塾の使い方3番目。「とにかく安心する。」

これ結構、大事なことなんですね。これは、塾の選び方にも通ずる部分ですが、何をしてくれるわけでもないけど、何か安心する。何があるわけでもないんだけど、なぜか安心する。

このよく分からないけど、とにかくいいんだよ。

っていう。

これって、結局自分に合ってるっていうことなんですよね。

自分にとってのお気に入りに囲まれると、何だかとってもノリノリになれる感覚。

これは、言い方を変えると、「1つのワクワクは、別のワクワクを引き連れてくる。で、そうやってゆくうちに、自分の周りにお気に入りのもの、ワクワクする出来事がいっぱい溢れるように集まってくるようになる。」

こういうことなんですね。

プラスの循環を作り出すこと。これ、結構大事ですね。

コツコツ努力する、いわゆる目に見える形で目標に近付いてゆくことも大切ですが、同じくらい、目に見えない部分も。大事なんですね。

むしろ、この目に見えない部分にちょっと目を向けて、時折少し意識的になってみることをやってゆくことこそが、目標を達成する際に大きな力となっていたりするもんです。

ですからこの見えない部分。これ、ちょっと意識することをしてみてください。


(3)家庭教師

インプットとアウトプット。家庭教師の存在意義について。

どうして家庭教師の授業を受けるのか。この理由は、授業が進んでゆくにつれて、また自分自身の実力がUPしてゆくにつれて変化してゆくものですが、まず最初の段階で考えておくことも大切ですね。

例えば、苦手科目を克服したいという場合、どうして家庭教師なのか?

それは、「その形がいちばん力がつくから。」ですね。では、苦手科目を克服するということにおいて、家庭教師が有効である理由は?

自分の苦手な部分をピンポイントで、深いレベルで見てゆけるから。そして、出てきたポイントにつき、適切な質問とヒントにより段階的に徹底してアウトプットしてゆけるから、です。

「問いに答える」ということ。「考える力」を引き出すための魔法の方法とは。

「見る。問う。理解する。」

このように導く指導方法を私は「3STEPティーチング」と呼んでいます。

まず、教師がまず生徒の状態をしっかりと見て、どのあたりがポイントなのかを把握してゆきます。次に、それをもとに「今、この子にとってベストだと思われる聞き方」で質問をします。すると、生徒はその質問内容につき自分の頭で考え答えを出す。生徒がどうしても答えを出すことができない場合は、教師がヒントを段階的に出すことにより、徹底的に考える体験をしてもらいます。そうすると、徐々に徐々に、自分が理解できていなかったことが明らかになってきて、より深くより実践的な形で理解することができる。

このようなプロセスを経ると、単に教師が教科内容を説明する場合とは比べものにならないぐらい、生徒自身の「考える力」が引き出され、育ってゆくこととなります。

自分に合った家庭教師を見つけるための5つのポイント

これは、先ほどの塾の選び方と共通する部分は多々あるわけですが、とりあえず並べてゆきたいと思います。

ポイントその①:「第一印象がどうなのか。」

まずこの第一印象。結構重要ですよね。ホームページやパンフレットなどを見てみて、その先生のことをどう思うのか。どんな感じがするのか。

これは、色々考えてみるのもいいですが、理屈抜きに印象や感覚といった部分でどうなのか、というのを感じてみるのも大事なことですね。

ポイントその②:「未来が見えるかどうか。」

で、この先生と一緒に勉強を楽しく進めてゆけるかどうか、つまり一緒に頑張っている未来が見えるかどうか、が次のポイントですね。

ハッキリとは見えないけれど、何となく明るい未来が見えるのかどうなのか、ということですね。

第一印象では良さそうだったけど、実際会ってみると、何かこの先生と一緒に勉強してるイメージが湧かないわ、となったのなら、それはご縁があまりなかった、ということになるでしょうし、

第一印象は割と普通な感じだったけれど、実際会って話してみると、なんかこう、すごく親近感が湧いてしっくり来るっていうか、自然体な感じがして、色々なことを一緒に共有しながら、楽しく勉強できてそうなんだよね。

こう思えるのなら、その先生との縁は大事にしてゆくとよいでしょうね。

ポイントその③:「自分の気付かないところに気付いてくれるかどうか。」

これ、結構大事なんです。家庭教師の役割というと、色々あるわけですが、その中でもかなり大事な部類に入ってくる役割の1つが、お子さんの気付かないところにちゃんと目を向けてくれること。なんですね。

なぜなら、自分では気付かないところは手付かずのまま、いわば未開の地であるわけですから、この未開の地をどうしてゆくかこそ、受験生なら合否を決する最大のポイントとも言えるわけです。

目に見える部分に働きかけることももちろん大事ですが、目に見えない部分。あまりクローズアップされたこなかった部分に、いかにスポットライトを当ててゆけるのか。

このあたりが指導者には求められている大事な部分ですね。

ポイント④:「いい時ばかりでなく、悪い時も、いや、悪い時こそとことん付き合ってくれるか。」

これも大事なところですね。一緒に勉強をしていれば、順調に進むときもあれば、思うように進まないときもある。

思うように進まず、なんか悪いサイクルに入って来てるな、と思ったときに、どんな対応をしてくれるのか。

明確な答えを与えてくれるのか、そっとヒントを言って導いてくれるのか、黙って横で見守ってくれるのか。

どれが正解なのかは場面場面によって変わってくるわけですが、大切なことは、「教師自体がちゃんと見えている状態でそれをやっているのかどうなのか?」つまり、意識的に1つ1つのことを選択できているのか、ということなんですね。

そこの部分が曖昧であると、気付けば全員が何かこう、けだるい感じになってしまうというか、違和感や無力感が家の中に漂い続けることになってしまうというか、とにかくあまりよろしくない方向に事態が進んでいくことになったりします。

ですので、この、悪い時にどういう選択をどのような意識でやってくれる先生なのか、この視点もしっかり大事に持っておくといいですよね。

ポイント⑤:「タイミングよく全てが進行してゆくか。」

最後のポイントは、ズバリ「タイミング」ですね。タイミングがバッチリ合い続けるのかどうか。その先生のバイオリズムと自分のバイオリズムがシンクロするのかどうか、ということです。

どんな良さそうに思えた先生でも、途中からタイミングがズレて来たら、それは要注意のサインですね。

その先生と波長がちゃんと合うのなら、タイミングはバッチリ合うものです。これはもう、見事に合いますね。

ですからこの最後のポイント。タイミングが合うか、タイミングが合い続けるかどうか、というのは自分に合った家庭教師を見つけようとする際には、とても大事な指標となってきます。



家庭講師
オンライン動画コース

(4)オンライン動画コース

いつでもどこでも何度でも。

さて、お次は「オンライン動画コース」です。この学習手法の何がいいって、それはまずもう、いつでもどこでも自分の好きな場所で好きな時間に受講できる、っていうところですよね。しかも、何度でも好きなだけ受講できる。

これは、自分のペースで自分の好きなように自由に学習を進めてゆきたい、っていう人にはピッタリの受講形態ですよね。

家でくつろぎながらゆったり受講するのもよし。素敵なカフェでリラックスして楽しく受講するのもよし。ジョギングやトレーニングをしながらちょっと活動的な感じで受講するのも、もちろんありですね。

毎日自分がやっていることにうまく組み合わせれば、とってもいい形で習慣化させることもできます。

まあ、唯一のデメリットと言えば、「毎週決まった曜日の決まった時間に始まるわけではないので、サボり癖がついてしまうと、ずっとそのままになってしまうかも。」ということでしょうか。

これは、もう、全ては自分次第なので、ここら辺は自己管理だけはしっかりね、ということですね。

観ているだけで「考える力」ってつくの?

ところで、オンライン動画授業って基本的に双方向というよりも、講師が話しているのを生徒が視聴しているだけ、という形ですよね。

このような形で、つまり動画を視聴しているだけで「考える力」って本当につくの?っていう疑問が出てきます。

これはまさに、「どの動画がいかに双方向を意識して作られているか。」ということと、「視聴している側が、いかに目的意識を持って視聴できているか。」ということにかかっていますね。

楽しい動画ではあるけれども、しっかりと考えるということを視聴者に促すような仕組みが随所の施されている動画であれば、リアルの授業あるいはリアルタイムの授業と同じぐらいの、場合によってはそれ以上の臨場感と双方向性を持っているものなので、動画を視聴しさえすれば、考える力はどんどんついてゆきます。

また、視聴者の側も決して受け身にならずに、「自分もこの動画授業に参加している、いや、自分こそ中心となってこの動画授業に参加している。」という意識を持って主体的に動画を視聴することができていれば、それはものすごい勢いで知識を吸収し、考える力を飛躍的に伸ばしてゆくことも十分可能だと言うことができます。

どこまで行っても、自分次第、ですね。

受験なのにふざけてる。ふざけてるのに、力がつく。

さあ、私がオンライン動画授業で講師として授業をする場合は、とにかく楽しく面白く、ということを大切にしています。だって、面白くなければすぐに飽きてしまって、勉強が進まないですからね。

もちろん、この「おもしろい」ということの中には、くすくすゲラゲラ笑うおもしろさもあれば、興味が湧いてワクワクするというおもしろさもあるわけで、学びがしっかり深まってゆく面白さ、ということですね。

中学受験の動画授業なのに、内容はおちゃらけてふざけているものもありますね。

そう、受験なのにふざけてるんですよね。最高じゃないですか!何事も面白くてなんぼですからね。

で、ふざけているだけで、力がつかないのではだめですが、

ふざけてるのに、力がつく。これ、やっぱり最高じゃないですか!

でもね、よくよく考えてみればですよ。

受験なのにふざけてるんじゃないんです。

受験だからふざけてるんですよ。普通にやっていたら、受験なんて、真面目で面白くない方向に行っていまいがちですからね。で、気付いたらガチガチのお堅い感じになってしまう。

だからそこは、受験だからあえて積極的にふざけてゆく。

それを意識的にやってゆくことによって、

ふざけてるのに、力がつく。

いや違う。

ふざけてるから、力がつく。

っていうことになるわけです。

だって、ふざけてるってことは、もう、勉強しながら遊んでるのとおんなじですからね。勉強と遊びの境界を飛び越えて、ワクワク楽しむ心で勉強に取り組む。

そのように勉強に取り組んでいるときは、理解力も集中力も創造力も、もう、ありとあらゆる力が全開になっていますからね。

知識も力もあり得ないぐらいの伸びを見せてゆくってことになります。

こういうことが可能なのって、やっぱり「オンライン動画コース」だからなんですよね。

ですからこの学習形態が、私のいちばんのおススメのうちの1つですね。


(5)完全自学自習

自学自習は最初の形態であり、最終形態。

さあ、出ました。完全自学自習。

これは最強ですよ。もう、理想形と言っていい。

誰の力を借りるでもなく、自ら学び、自ら成長してゆく。

最強です。

私はなぜこれが理想形だと思うかと言うと、大学受験のときに自分自身がそうしていたからなんですね。

予備校に通ってはいましたが、英語・数学・国語に関しては特に、とにかく授業の予習をするようにしていて、もう、目の前で行われている授業のだいぶ先を行っていたんですね。

初めのうちは、自分の予習したことの答え合わせと理解が不十分な部分の確認という意味で授業を受けていたんですが、途中からは、一部の授業を除いてほとんどの授業を受けなくなったんですよね。

代わりに、授業が行われている時間帯に、自習室に行って自習をしていた。

これね、あんまりこういうことをしている人、周りにいなかったんですが、自分は気付いたらこういう形で学習を進めていました。

だって、受験までの時間は限られているわけですから、分かり切ったことに時間をかけている場合じゃないんですよね。その時間は、苦手分野を徹底的に学習し直したり、まだ学習できていない分野を新たに学習したりすることにあてるべきです。

ただ、これは自分の学習管理能力に自信がない人の場合は厳しいですし、高校受験や中学受験でこれをやるのは、大学受験ほどスムーズには進まないでしょうね。

でも、もしできるのなら、やっぱり自分のために100%カスタマイズされたカリキュラムで自分の思い100%で進めるのが、いちばん合格に近くなると思います。

自ら学び、自ら助く。

そして、これは方法論だけの話にはとどまらないと私は考えています。なぜなら、この自ら学ぶということを大事にするという、この心構え自体が自分自身を大きく成長させるからなんですよね。
私の場合、浪人時代、「勉強は外でしか、しない。家に帰って来たら、勉強のことは一切忘れる。」と決めていました。こう決めていたからこそ、その日のメニューを終えるために、外で、これは予備校の校舎だけでなく、通学途中の電車の中なども含みます、学習しきる、その日のスケジュールを絶対にこなしきる、ということが徹底的にできたんだと思います。
もちろん、教師と生徒とのやり取りの中で、コミュニケーションを積み重ねる中で、学習内容がしっかりと身に付く、ということもあるとは思います。
でもね、やっぱり勉強って基本は1人でやるもんなんですよ。内なる自分、内面世界の中で、学習内容と自分がちゃんと対峙して、向き合って、そこで深まってゆくもの、これが勉強だと思いますね。
いや、勉強という表現より、学問という表現の方がしっくり来ますね。
おそらくね、この学問ということが、昭和以降、平成、令和と進んでくる中で、どうも忘れ去られてしまった気がするんですよね。この日本においては。
でもね、人ひとりが真剣な気持ちをもって、何かを追求し探究してゆく、このことの大切さは、今ますます必要な時代になっていると思いますね。
だって、どんなにAIなど先端のテクノロジーが発達して来たとしたって、この世界をどうしてゆくのかを決めるのは、私たち人間ですからね。どんなに技術が発達したって、何をしてよくて、何をしたらだめなのか、これを決めるのは、どこまで行っても私たち自身なんですよ。
その、決めるっていうことをするためには、前提として、何かを、どの分野でもいいです、自分にとって大切だと思える何かを、徹底的に追求し探究して来たかどうか、っていうことがとてもとても大事なんですよね。だって、その追求し探究しということをする中で、人は本当に、考えるということをしますからね。
その考えるっていうことをして来ているからこそ、大事な場面で決める、決断を下す、価値観を示す、ということがバランスの取れた形で的確にできるわけです。
このような、骨太の学問。これが今の時代もう一度見直される必要があると思っています。
そしてそれはね、小学校から始まっているんですよね。
三つ子の魂百までと言います。子どもの時、どのように勉強や学問というものに向かっていたがが、そのまま、大人になったときに仕事というものにどう向き合うかにつながってゆきます。
もう、始まっているんですよね。
ところが、周りを見渡してみると、自分にも課されている何かがあるということ、大切な使命がどんな人にもちゃんとあるんだということ、このことを前提に勉強をしている子どもたちは極めて少ないように思います。
「自分なんて。」なんてこと、言っちゃだめなんですよね。
だって、本当はそんなこと言いたいわけじゃないでしょうから。
本当は、心の奥底では、何かをしたいと思っている。何者かになりたいと思っている。でも、それがまだぼんやりしていて、ハッキリとは見えない部分がある。
だから、勉強するんですよ。
みんな、迷っていたんです。迷っているんです。だから、勉強した。学問をした。追求し、探究した。
その本気に触れてみる。その本気を味わってみる。
これこそが、本来の、勉強・学問の醍醐味なんですよね。
これこそが、本当の意味の「面白さ」なんです。
ここらあたりについて、真の気づきを得て、自らの人生を歩む覚悟があるのであれば、究極的には勉強は自学自習、これに限ると思いますね。

自分の頭で考え、自らの可能性を全開にする。

この、「自分の頭で考える」ということ。この部分をどうか軽く考えないでほしいと思いますね。
誰がかというと、子どもではなく、「大人が」です。
よくこんなことを言う親御さんがいらっしゃるんですよね。
「もっと、自分の頭で考えなさい。」
ってね。
でも、これはものすごく厳しい言い方になるかもしれないですが、
「あなたは一体、どの程度自分の頭で考えてきたんですか?」
と。
こういうことですよね。
「そんな、私の話じゃなくて、息子の話をしてるんですから…」
と思われるかもしれませんが、
そう思われるのなら、息子さんや娘さんの勉強に口を出すべきじゃないです。
だって、人はいつでも「自分」のことについて語るべきであって、「自分」のことについて考えるべきであって、
たとえ息子さんや娘さんであったとしても、自分以外の人のことは、基本的には分からないですからね。
そして、これも厳しい言い方になりますが、大事なことです。
「自分ができていないことを、あるいは自分ができているつもりで実際にはできていないことを、まるでできているかのように語るのなら、相手はそのことを敏感に察知します。」
ということですね。
以前、指導した生徒のお母さんで、こんな方がいらっしゃいました。
確か理科のことについて語っていらっしゃったときだっと思いますが、
「こんな問題は、すぐ解けるでしょ。」
とおっしゃったんですよね。
そのとき、いつもおとなしかった息子さんが、
「いや、お母さんはこの問題、解けないでしょ。」
と、ものすごく冷静に言ったんです。
そして、そのときから、その瞬間から、親子関係はガラッと変わりましたね。
それまで、「お母さんが息子さんに色々なことについて口を出す。息子さんは黙ってそれを聞いている。」という関係性だったのが、
「お母さんは言いたいことはあるけれど、黙って見守るのみ。息子さんはそれまで通り、多くを語らずやるべきことを自分のペースでやっている。」という関係性に変わったんですよね。
もちろん、このように変わったからといってそれで全ていい形で進むわけではないんですが、
少なくとも、「嘘」「ごまかし」がなくなったわけです。
そうですね。これはかなり厳しいことを申し上げていることは分かっています。
でもね、例えば中学受験をなさる、という場合。
時間が限られているんですよ。そして、可能なら、もし可能なら、絶対に絶対に、志望校に合格したいですよね。
後悔したくないですよね。
であるなら、息子さん娘さんだけでなく、お父さん・お母さん、家族全員が、後悔しないように、
やり切らないとだめなんです。
本気にならないとだめなんです。
この本気というのは、厄介なもので、
「自分は今本気だ。」って思っているときに限って、案外そうでもなかったりするもんなんですよ。
だから、他者が存在している。自分以外の誰か他の人の言うことを聞く、ということが大切になってくるわけですね。
こんなお母さんもいらっしゃいました。
「私は、もうできるだけのことは、全部やり尽くした。」
そんなわけないんですよね。だって、実際、息子さんはものすごく悩んでいるんですから。
気持ちは分かりますよ。かなり頑張って来られたんだと思います。色々を、できる限りのことをしてきた。辛い気持ちを乗り越えて、頑張って笑顔でいて、やりたくないこともいっぱいして、でもなかなか思い通りにいかなくて、当の本人はやる気があるんだかないんだかよく分からないような状態が続いている…
でもね、ここであきらめちゃだめなんですよ。
むしろ、ここから始まるんですよ。
分かります。辛いですよね。
こんなに頑張ってきたのに、まだ頑張るのか、と。
そんなときは、とにかくゆっくり休むことです。まず、「自分」を取り戻すことです。
自分を取り戻せば、見えてくるものがあります。
「ああ、なんで今まで気付かなかったんだろう。こんなこと、いつでも気付けたはずなのに。」
でもね、このタイミングで良かったんです。このタイミングで完璧なんです。
つかもうとすればするほど、物事はすり抜けてゆきます。
もがけばもがくほど、事態はもつれてゆく一方です。
本当に頑張るということは、真の意味で本気になるということは、
力を抜くということなんです。
力を入れることが本気だと思うのは、まだそれでいけていたからですね。
本当の意味の試練がやって来たとき、それはいかに力を抜いた状態で最高の選択ができるか、という、その真剣勝負だということがその瞬間分かります。その瞬間悟ります。
受験がまさにそうですね。
真剣勝負ですから。
どんなにご自分が過去に受験をなさったことがあったとしても、所詮それは過去のことなんですね。今ではないです。
そして、どんなに経験して来たと言ったって、所詮それは自分の経験でしかないんですよね。息子さん娘さんの経験ではないです。
ですからどうか、決め付けないであげてください。焦らないであげてください。急がせないであげてください。
息子さんは、娘さんは、ちゃんともう、考えているんですよ。自分の頭で、精一杯、考えて、できる限りの、努力をしているんです。
たとえそうは見えなくても、です。
いや、そうは見えないときこそ、実はそうなんです。
ここに気付けるかどうかは、ひとえに、お父さん・お母さん、あなたがご自分の人生で何を経験し何を乗り越えて来られてきたのかにかかっています。
そうです。お子さんが試されているのと同様に、お父さん・お母さん、あなたも試されているのです。
これが、「中学受験は家族全員の受験だ。」ということの本当の意味です。
私は、決して、もっと反省し、もっと後悔し、もっと罪悪感を持った方がいいですよ、と申し上げているのではありません。
むしろ、全く逆のことを申し上げています。
ご自分の人生を振り返って、もっとご自分のことを認め、もっと褒めて、もっと信じてあげてください。そう、申し上げているのです。
そのことをやってゆくプロセスで、必ず気付くはずです。自分は、色んな人の力があって、色んな人の支えがあって、ここまで生きて来たんだ、ということに。
そこに本当の意味で気付けるとき、本気でそこに目を向けられたとき、
初めて子育てができる自分になるんですよ。
「いや、自分なりにここまで子育てして来ました。」
もちろん、分かっています。
しかし、ここで申し上げているのは、本当の意味での子育て。息子さん・娘さんと本当の意味で語り合い、分かり合い、ともに時間を過ごせて本当に良かったと思える、そういう子育てのことなんです。
この本当の意味での子育てができれば、初めて、息子さん・娘さんと向き合えるようになるはずです。
人と人として。人間と人間として。
そうした瞬間こそが、「やれることは全てやり切った。」と本当に言い切れる瞬間なんですよ。
そして、「もう大丈夫だ。息子は、娘は、もう大丈夫だ。」このように思う瞬間なんですよ。
この瞬間のために、全てがあったんだ、と思えるぐらい、感動と感謝の気持ちが溢れ出てくる瞬間なんですよ。
これは、体験したことがある人にしか、分からないことです。
誰かが既に体験したことを、映画やテレビや本などを通して分かったつもりになっても、ダメなんです。
自分自身が、経験することに意味があるんです。
経験したことは、そのままお子さんに伝わります。
経験していないことを、さも経験して来たかのように言うことはできないんですね。
そうです。等身大でいいんですよ。ちょっといい加減で、結構すぐ不機嫌になって、実は定期的に不安になってしまう、等身大の自分のままで。
そこを、まあ、ちょっとカッコよく見せようとしてしまうと、そこからおかしな関係性が始まってしまうんですよね。で、気付いたらかなり大変な状態になっている。
物事は、小さいうちに処理しておけば、本当にちょっとの労力で済むんです。それを、「まだちょっとだから。」と言って、放置しておくから、もう手の施しようがないような事態にまで大きくなってしまう。
難しいですよね。でも、難しくないんです、実は。
「これぐらい。」と思ったことが、後に、大勢の人を巻き込んでとんでもない事態を引き起こす、ということがあるんですよね。
ですから、その「これぐらい。」と思っていることこと、大事にするようにしてください。
そうすれば、その大事に思う気持ちが、ちゃんとお子さんにも伝わってゆくんですね。
で、その積み重ねが、「自分の頭で考える」ということ、この広い地球で、たった一人の、かけがえのない、大事な大事な人間である、「この私」として、胸を張って堂々と自分の考えを述べてゆくということにつながってゆきます。
きっかけは、何でもいいんです。大層な、取って付けたようなことより、もっとなんか、しょーもないこと、くだらないこと、笑っちゃうようなことの中に、きっかけがありますね。

このブログシリーズも、ここをもって終わりです。
ここまで長い文章にお付き合いくださり、ありがとうございました。
あなたとあなたのお子さんにとって、幸せな日々がずっと続き、その幸せが周りの全ての方の幸せへとつながってゆくことを、心から願っております。
いつかまた、会える日を楽しみに。



自学自習。自ら学び、自ら助く。

スペシャル無料講座「考える力をつける勉強法」― 幸せな大人になるためのゴールデンルート ― ⑥

4.「考える勉強」のもたらすミラクルな成果と感動体験。

短期間で飛躍的に成績が伸びる。

私自身の体験。

さて、ここで私自身の経験を少し語ってみたいと思います。私は中学受験で志望校に合格し、入学後中学3年の頃までは頑張って勉強をし、それなりに成績も良かったのですが、色々なことが重なって、高校生になって少し経ってからほとんど勉強しなくなってしまいました。

で、浪人生として予備校に通うことになったわけですが、何せ高校に入ってからの勉強ができていなかったので、なかなか思うように勉強が進まない科目があったんです。

それは、「物理」でした。

もう、これは自分にとって完全に鬼門のような科目になってしまっていて、気にはしていたものの、受験直前までほぼ手つかずのまま放置状態で、結局気付いたら入試一ヶ月前になっていました。

入試1ヶ月前の時点で、限りなく0点に近い実力。それが物理での私の状況でしたが、志望する大学の基準と他の科目の点数の推移から考えると、物理で80点は取る必要がありました。

多少の波はあったものの、他の科目は何とかなりそうな状況だったのですが、物理だけはどうにもならない。多分、0点とか。10点とか。そんな状況。物理がそんな状況なら、他がいくら良くても、さすがにカバーしきれない。

どうするか。

きっとここで私は考えたんだと思います。

どうするか。

当たり前ですよね(笑)。

物理10点とか、0点とか、そんなんですから。

そりゃあ、考えます。

でもね、考えても始まらないし、何か不思議と不安はあまりなかったんですよね。

そんな感じで、「物理、どうしよっかなぁ。どうしようもないよなぁ。でも、どうにかしないとなぁ。」と少し意識するような状態で過ごしていたとき、

ある日、予備校の教室の後ろの方に何かをドサッと置く音が聴こえたんですよね。

「石田くん、これ、私の友達の〇〇くんが以前使っていて今はもう使わなくなった参考書・問題集。欲しいものあったら、あげるって。」

突然参考書バザーならぬ、参考書差し上げますデリバリーがやって来たわけですね。

何やら色んな本が並んでいたわけですが、その中で、1冊気になる本がありました。「☐☐流物理の大原則」。なんかそんなタイトルの本でした。

とにかく、物理の本だったわけです。その本のキャッチコピーは、

「この本があれば、物理は1ヶ月でマスターできる。」

そんなような感じでしたね。

ぬわぁんだと?物理が1ヶ月でマスターできるだと?

そんなこと、できるわけ…あんのか?ホントに?

いや、でも、できるなら、ぜひ…

気付いたらその本を取っている自分がいましたね。そのときのワクワク感とドキドキ感は、今でも覚えています。

なんか、すごい本に出会ってしまった…気がする。

早速帰りの電車の中でその本を読み、空き時間を利用して、あっという間に読み終えました。

「なんか、この本、自分に合ってる気がする。」

そう思った私は、上巻だけだったその本の下巻を書店で購入し、下巻も瞬く間に読み終えてしまいました。

あれだけ分からなかった物理の問題が、その本の解説に従って解いてゆくと、不思議と簡単に解けていったんですね。

結局、その本の作者による物理の過去問演習の本も購入し、「この本だけで」ではありませんでしたが、「この本の作者の本だけで」という状態で、物理のテスト本番を迎えることとなります。

結果は、88点。

「よっしゃー!」ミスをしていなければ90点台だったはずなのですが、入試1ヶ月のあの状況を考えれば、もう、十分すぎる結果でした。

英語・数学・国語でも嬉しいミラクルが立て続けに起こり、志望していた大学に無事合格することができました。

これだけの奇跡を、一度に経験できたことは、その後の私の人生観をガラッと変えることとなりました。

生徒の体験。受験1ヶ月前に受験勉強を始めた、勇気ある少年の話。

大学入学後から、塾講師や家庭教師など様々な「教える」仕事に携わっていたわけですが、ある日家庭教師センターから1本の電話がかかってきました。

「先生、実は見てほしい生徒(Hくん)がいるんです。入試まで1ヶ月しかないんですけどね。今から8科目、仕上げないといけないんですよ。」

「えっ!?」

体験授業をしにHくんのお家に向かったところ、

「現在受験勉強は全くしていない状態なんですが、1ヶ月で何とか合格したいんです。」

とのこと。

これまで受験勉強をした経験がなくて、たった1ヶ月で8科目を仕上げる。

無理でしょ。

でも、無理だと言っている場合ではありません。まずはHくんの実力がどれぐらいなのかを見てみることから始めます。

まずは算数から実力を見てみたのですが、確かに受験勉強をやっていないと言っている通り、通常ならサッと解くべき問題で手こずっている様子が伺えました。

しかし、ヒントを出しながら導いていってあげると、自力で正答にたどり着くことができる場面もありました。

「この子はいける。ひょっとすると、本当に合格するかもしれない。」そう思った私は、授業後お父さんとお母さんにその旨お伝えしました。

そこから、「たった1ヶ月で8科目を仕上げる。」という、途方もないミッションに向かって、関係する全員がそれぞれの立場で全力を出し続けるということをゆきました。

家庭教師の時間と自学自習の時間、お父さんがHくんの勉強を見てあげる時間をうまく組み合わせ、絵を描くのが好きなHくんの興味に沿った形で超効率的な勉強法をお伝えしてゆきました。

教師である私がいくら盛り上がっても、肝心のHくんが乗り気でなかったならどうしようもなかったのですが、幸い本当に楽しみながら全ての勉強に取り組むということをしてくれました。

限られた時間の中で、いかにしてスピーディに基本を身に付け応用力も同時に伸ばしてゆけるかの勝負でした。

まさに、「考える勉強」と「身に付ける勉強」の両立を完全な形で展開できるかが問われている状況でした。

着実に実力が伸びている部分となかなか実力がついてゆかない部分があったHくんでしたが、とにかく受かりたい一心で入試本番までみんなで駆け抜けました。

入試前日に思わぬハプニングがあり、本気で焦っていたHくんでしたが、

入試本番ではちゃんと力を出し切り、見事志望校に合格することができました。

「合格おめでとう!」

「ありがとうございます!」

十分に実力を付けていたHくんの合格を確信していた私でしたが、指導者として素晴らしい経験をさせていただいた奇跡には、感謝の気持ちでいっぱいでした。

Hくんの指導を依頼してくださった家庭教師センターの方には、

「先生、本当ですか?素晴らしいです。まさに石田マジックですね。」

というお言葉をいただき、このような奇跡を目の当たりにし経験できたことを心の底からありがたいと思うばかりでした。

奇しくも、「入試1ヶ月前」という共通点でつながっていたHくんと私。

ひょっとすると、浪人時代のあの時に、入試1ヶ月前の時点で物理をあきらめてしまっていたら、友達の友達があの本を持ってきてくれなかったら、Hくんの家庭教師をさせていただくことも、ともに合格まで駆け抜けみんなで奇跡を体験し感謝することもなかったのかもしれません。

まさに、人生は小説よりも奇なり、です。



考える勉強のもたらすミラクル感動体験
楽

勉強がラク。ラクだから楽しい。

いかにしてラクをするか?堕落人間がたどり着いた、究極の勉強法。

Hくんだけでなく、不思議と私の元には、「入試直前なんですが、成績が芳しくないんです。何とかしていただけないでしょうか?」そのような依頼が寄せられることとなりました。

まあ、考えてみれば、家庭教師を依頼するということになる時点で、あまり勉強してきていなかったり、というお子さんである可能性はそれなりに高い、ということになります。

そういう子には、「入試直前だけどね、先生が何とかしてあげるからね。」なんてことは…言いません(笑)。

そんなこと言ったら嘘になりますからね。だって、実際に試験を受けるのは子どもさん本人なんですから。私が代わりに受けてあげられるわけじゃいですから、そんな約束はそもそも成り立ちません。

では、そういう子にはどう言うか?

「どんな事情があったにせよ、入試直前まで勉強をほったらかしにしておいて、直前になってやっぱり何とかしてください。これはいくら何でも虫が良すぎる話だよね。」という風に話をします。

自分自身を安心させてくれるはずの家庭教師が、いきなりドぎつい言葉がけをしてくるわけですから、当の本人はかなり面食らった状態になるんですが、

こちらがそこでじ~っと待っていると、

「まぁ、そらそうだわな。」

と、妙に納得した顔に変わるんですね。

で、そのタイミングで、

「で、どうするの?あきらめるの?それともやるの?」

とその子に問いかけます。

そこで「あきらめます。」って答える子にはまだ出会ったことがありません(笑)。

まあ、そこはちょっとカッコよく、決意に満ちた様子で、

「やります。」

と、こう答えてくれるわけですね。

この瞬間、この子の実力は飛躍的に伸びるんです。

なぜかって?

決断したからです。

本気の決意をしたからです。

人は本気の決意をするとき、まさにその瞬間、能力・才能・可能性がボーンと引き出されます。

ですから、本気のコミットメントをしてもらう。

一体誰の受験なのか、一体誰の勉強なのかを、自ら気付き、宣言してもらう。

これって、大変なんですけどね、実はここを乗り越えた後は、案外楽なんですよね。

だって、長い期間背負って来た何か余計な重荷とか余分な力みとかそういうものが全部取れて軽くなるわけですからね。

で、ここからの勉強はね、もう方法論とかそういうことよりも、とにかく本気の覚悟で進んでゆくわけですからね、ある意味最強。うまくいくに決まってる、いや違うな、何が何でもうまくいくように流れを持ってゆける状況に自ずとなっていくんです。

これはね、究極の、いわば極限状態に置かれた人間のポテンシャルを見ることができる瞬間なんですよね。

あれだけ勉強サボりまくっていたのに、どうしたの?なんか、できる人みたいになってるじゃん。周囲の人はそう思うかもしれませんが、その通りなんですよ。実際、できる人になるんですね。

そして、この極限ハイ状態とも言うべき状況から何とかして合格してゆくお子さんっていうのは、その後の人生においても、とてつもない底力を発揮できるようになって、自らの目標を着実に達成してゆくんですよね。

リミッターを外す。これは指導者自身がまずそれを経験している必要がありますね。自分が経験していないことは人に教えられないですからね。

ですから、リミッター外しを何度か経験していて、他人がリミッターを外すお手伝いに興味がある人、こういう人が、生徒のリミッター外しを一緒にやってゆける人ということになりますね。

「先生、算数って面白い♪」

まあ、こんな感じで色んな生徒さんを指導してまいりましたが、中には変わったお子さんというか、ちょっと驚くようなことを言ってくれる子もいるんですよね。

例えば、入試がもうそこまで近付いて来ているのに、苦手分野・苦手なタイプの問題がまだまだ残っているような場合。

それなりに緊迫した授業をこちらがしている最中にね、何の前触れもなく、急にとてつもなく楽しそうな笑みを浮かべて、

「先生、算数って面白い♪」

こう言ってきた男の子がいましたね。

「へ?」

こんな感じですよ。こちらはね。

「はぁ(あぁ)、ふぁんふぅが(算数が)ふぉもふぃろい(面白い)のね。ふぉっかふぉっか(そっかそっか)。ふぁんふぅが(算数が)ね。」

拍子抜けしたこちらも、何かもうイケる気がしてくるからこれまた不思議ですよね。

そんな風に、気合が入っているのは先生だけで、生徒の方はいい形で力が抜けていたりもする。

どこまで行っても、授業にしろ、受験勉強にしろ、生徒と教師が共同で作り上げてゆくものなんだ、ということに気付かされる瞬間ですね。

勉強が苦手な大人は、どう勉強する?

さてさて、ここまでは主に子どもたちにとっての勉強のお話をしてきたわけですが、ここらあたりで、大人にとっての勉強という話も少ししてみたいと思います。

大人にとっての勉強ということですが、基本的には子どもにとっての勉強を何ら変わるところはないと思います。
ただ、1つ言えることは、「子どもの頃からの癖が、そのまま大人になってからの勉強に反映される。」ということでしょうか。
つまり、凝り固まっている形で、癖がものすごい、ということはある程度言える気がいたします。
こんな生徒さんがいらっしゃいました。社会人になってからもう一度勉強をし直したいと。で、勉強はもともとそんなに好きな方ではなく、苦手意識があって…
でも、勉強はしたい。
こういう場合、勉強というものへのイメージをガラッと変えることから始めるのが大切ですね。で、ちょっとでも進歩したのなら、それを大いに喜べるかどうか。こういうことも大事です。
もともと大人になってからもう一度腰を据えて勉強に取り組もうとしているだけで、十分素晴らしいことなわけですから、できないことに意識を向けるよりも、できること、できるようになったことに意識を向ける。このことが子ども以上に大事になってきますね。
ただ、自分自身の癖とは、向き合う必要があります。癖は偏りを生み、偏りは失敗を生むからです。
例えば国語力に自信がないという場合でも、ちゃんと社会に出て働いているわけですから、一から十まで何もかもがダメというわけじゃない。
そうではなくて、どこか一部が、書くなら書く、そういう部分に自信がない。こういう状態になっていたりする。
じゃあ、どうすればいいのか?
今まで書いて来ていないわけです。言わば書くときの筋肉をほとんど使っていなくて、肉体トレーニングで言えばある筋肉はものすごく発達しているのに、違う筋肉は皆無だったり。そういうアンバランスが形作られている。
どうするのか?
偏りを取るしかないですよね。ムキムキのところはそのままでいいから、ヒョロヒョロのところ、そこに意識を向けてみる。
で、自分自身が苦手だと思っているいちばんの部分は、実は苦手ではなかったりするんです。そうではなくてその周辺部に隠されているところ。ここに真の苦手が潜んでいたりします。
ここにアプローチできれば、長年の癖も、凝り固まっていたことによる痛みや不快感も、いい形で取れていったりしますね。
まあ、なんだかジムのパーソナルトレーナーみたいな話になって来て、勉強の話じゃない雰囲気ですが(笑)、実際、スポーツと勉強は相通じる部分がかなりあると感じています。
ある意味、勉強をスポーツ的に捉えてみるときもあった方が、色々なことが見えてきたりするもんなんですよね。
事実、私は「体育の先生みたい。」って言われたこともあるぐらいですから(笑)、頭のことを教える際に、心であるとか、体であるとか、そういうトータル的な視点に立つことの重要性は、いわゆる普通の先生よりは協調する傾向にあるかもしれません。
思考力を伸ばしたいのなら、まず体力を付けた方が早かったりしますからね。
不安を解消したいのなら、体を動かせばよかったり。
自信を付けたいのなら、まずはゆっくり休んで心をリラックスさせることが大切だったり。
子どもの場合、頭と体がうまい具合に連動していたりするんですが、大人の場合その連動性がグラグラしているがゆえに、もう一度その連関を取り戻す作業が必要になってきます。


自分のしたいことが、「したいタイミングでしたいように」できるようになる。

クリエイティブに生きる♪ということ

さて、このブログシリーズもそろそろエンディングに差し掛かっている、というところなのですが、勉強と創造性というテーマでお話をしたいと思います。
そもそも勉強において、創造性はどれぐらい引き出されるのか、ということですね。
これはもう、「その人次第。勉強のやり方次第。」ということになります。
子どものときの創造性と、大人になってからの創造性。同じ部分と違う部分がありますよね。
伸び伸び育っている子がクリエイティビティを発揮するのかと言われれば、そうとも言えるしそうでないとも言える。
そうすると、そもそも「クリエイティビティ」とは一体何なのか、ということになって来るわけですが、
ここでこの「クリエイティビティ」というものを、創意工夫する力と捉えた場合、そこには何やら自由な雰囲気、伸び伸び自由に羽を伸ばしている雰囲気が出てきます。
しかし、クリエイティビティには無から有を生む力、ゼロから1を生み出す力を含むのだ、と考えてみると、そこには案外不自由な状況、自分の思い通りにゆかない厳しい環境下でポッと生まれてくる何か、得体の知れない、でもものすごい力と可能性を秘めた新しい何かが想起されたりします。
では、創造性を自ら育てクリエイティブな生き方をしてゆけるようになる環境とは、どういうものなのか?ということですが、これは一定の制限と一定量のストレスが条件となって来そうです。
そうなってくると、ここで面白いことに気付きます。いわゆる「創造性を育む取り組み・働きかけ」というものは、果たして本当に、真の意味の創造性を引き出す取り組みになっているのか、ということです。
例えばテニスを例に取った場合、世界のトッププロを目指してゆくのなら、創造性を発揮したプレースタイルというものが必須になるわけですが、そこで必要になってくるのは創造性を何かこう、無理やり引き出そうとして働きかけるということよりも、その子が創造性を見せてくれたときに指導者がそれを否定しないことの方が遙かに大事なわけです。
勉強においても、全く同じことが当てはまります。確かに何らかの刺激が触媒となって創造性が引き出されることも中にはあるかもしれませんが、やはりそれよりも大切なのは、子どもたちが勉強において、あるいは勉強じゃなさそうで実は勉強になっていることをし出したときに、それを否定せず黙って見守る大人の目線がそこにあるかどうかの方なんですよね。
こんなことを言ってきた大人の方がいらっしゃいました。「先生、子育てでいちばん大事なのは、大人が余計なことをしないこと、子どもの邪魔を大人がしないことですよね?」
それに対して私は、「う~ん…」となってしまいました。もう、「う~ん…」となるしかなかったんです。限られた時間の中での会話だったこともありましたし、その方とどの程度分かり合えるか、ということもありましたし、
大人の役目は邪魔をしないことか…いや、違う…なぁ。
邪魔しないことなんて、案外簡単にできるもんです。だって、見なきゃいいんですから。無視しとけばいいんですから。こんなことはそんなに難しいことではありません。
そうではなくて、何かこう、関わりたいんだけど、その関わりが干渉にならないように、関わりたいという気持ちの奥にある優しい気持ちはそのままで、その気持ちを慈愛の気持ちでそっと見守ることをするようにする。
この微妙で繊細な心の動き・体の動きこそが、子どもたちの創造性を育むことにつながってゆく、私たち大人が大切にすべき働きかけなのではないでしょうか。

「一生の財産」とは一体何なのか。

私自身中学受験を経験していますし、中学受験の指導もして来ているわけですが、小学生の頃にいわゆる勉学というものに励んだ時期があったことのどこに成果を見出すについて語るならば、
一般的に言われている、「今頑張っておけば、後で楽になれる。今苦労をしておけば、その苦労が必ず報われることとなる。」ということに対し、反対するつもりはありませんが、賛成するつもりもありません。
確かに、中学受験で培ったものは一生続く財産だと言えるでしょうし、苦労して志望校に合格した経験は、後の人生で大きな実りをもたらしてくれることも事実です。
しかし、どうもそこには違和感がある。つまり、何か良いことを期待して取り組むとき、その取り組みは果たして中身のあるものとなるのだろうか?ということです。
というのも、人が何かに取り組むとき、それはその取り組む何かそのものに価値を見出せばその何かはとてつもない宝物を途上でもたらしてくれるかもしれないが、取り組んだ結果何が得られるかに焦点が合ってしまうと、その途上の道はいわば通過点に過ぎず、「早く着かないかなぁ。」と、ただひたすら無為な時間を我慢することになってしまうだろうからです。
そのようにして、絶えず未来にばかり意識が向いてしまうと、肝心の「今」を感じ取る心の余裕も物理的時間的余裕もどこかに消し飛んでゆくこととなるんですね。
そのように絶えず先を急いでいるような状態では、身に付くものも身に付かないだろうし、体験できたはずのかけがえのない瞬間も、訪れたことに気付きすらしないという悲しい事態になってゆきます。
人生において何がかけがえのない財産なのか、ということですが、1つ言えることは、長きに渡って、できることなら未来永劫ずっと続いてゆき、場合によってはそこにさらに別の価値が加わって、どんどん育ち大きくなってゆくような、そんなものこそ真の財産と呼べるのではないか、ということです。
だとするのなら、勉強においても、現れては消えていってしまうような、そんな一時的・刹那的なものに価値を見出すのではなく、もっと大きなもの。大きな視点で見渡してみればその途方もない価値に目が眩んでしまいそうになるような、そのようなものにこそ価値を見出してゆく。
具体的には、知識ではなく力。結果ではなく、経験。未来ではなく、現在。
その場限りの知識は、時が経てばやがて消えてゆきますが、勉強を通して培った力は、大人になってからもさらに成長させることができます。
結果にばかり目を向けると、その過程でやって来るかけがえのない経験には意識が向きませんが、経験にちゃんと目を向けることができればそこに隠された一生モノの宝物に気付くことが可能になります。
未来にフォーカスし過ぎることは過度の緊張と焦りを生み、向かっていたはずの未来に結局たどり着けないことにもなりかねないですが、現在に適度なフォーカスを当てることができたとすれば、向かっている未来にちゃんと到着することはもちろんのこと、その過程で思わぬ副産物が生まれ、ご褒美として与えられるということも往々にしてあります。



楽しい人生

スペシャル無料講座「考える力をつける勉強法」― 幸せな大人になるためのゴールデンルート ― ⑤

3.そもそも勉強って何のためにするの?机上の勉強とリアルワールドとの密接なつながりについて。

(1)なぜ勉強するのか?「勉強」とはいったい…?

人は一体いつから「勉強」というものをするようになったのでしょうか?一体どんなきっかけで「勉強」に目覚めたのでしょうか?あるいは、気が付いたらいわゆる「勉強」をしていたのでしょうか?

おそらく人は、「なぜ?」と問うたとき、勉強の世界に一歩足を踏み入れたのだと思います。なぜなら、勉強とは基本的に「なぜ?」という問いに対する答えを探求するものだからです。そして、その「なぜ?」という問いは、知的好奇心というワクワクするプラスの感情、または純粋なつまりプラスマイナスゼロの感情、あるいは何かがうまくいかないことに起因するマイナスの感情など、様々な感情とともに発されるものであったことでしょう。

いかなる社会的義務やいかなる社会的制約が今日ほど多くなかった時代においては、その「なぜ?」という問いに基づいた勉強はおそらく、自分の存在の全てをかけて取り組むような、やりがいと生きがいに満ちた状態で進んでいったのかもしれません。

しかし、時代が進むにつれ、人は様々な制約やしきたり・義務といったものに取り囲まれ、「勉強」とはいつの間にか「やるもの。やるに決まっているもの。やると決まっているからやるもの。」というような、均一的・等質的・義務的なものに成り下がっていったように思われます。「自分の夢や目標を達成するため。」というと、一見その勉強は中身があるかのように錯覚しがちですが、言い換えればそれは、「好きなものを手に入れるために、嫌いなものを我慢する」という形式の、ある種の取引のような側面が否めません。

そんな中、今日において勉強とは?と改めて問うてみる。そうするとまず、「今日において」という部分は、とりあえず湧きに置いてみたくなります。で、残ったものはというと、「(古今東西)人類にとって勉強とは?」ただ、この問いはどちらかと言うと、教育界に身を置く人たち、あるいは教育制度を定める主体に向けられた問いであるような気がしてきます。

そこで、このように問いを変えてみます。

「私にとって、勉強とは?私にとって、学びとは?」

これなら、人類皆に向けられた普遍的な問いであるような気がいたしますね。

私にとって、勉強とは?私にとって、学びとは?

ある人にとっては、学校の宿題をやることであり、

ある人にとっては、塾の問題集を解くことであり、

ある人にとっては、ドキュメンタリー番組を興味深く観ることであり、

ある人にとっては、将棋ゲームをすることであり、

ある人にとっては、スポーツクラブでバーベルを持ち上げることであり、

ある人にとっては、友達と楽しくおしゃべりをすることであり、

ある人にとっては、一人静かにお茶を飲むことであり…

どんなことでも、勉強と呼べるし、どんなことも学びになり得る。

そう、人生そのものが学びであると言われるように、昨日の自分よりも今日の自分よりも明日の自分と、常に進歩発展を望む心があるならば、そこには勉強が存在し、学びが起こっている。

つまり、勉強とは、学びとは、外的経験・集合的経験であると同時に、内的経験・個人的経験であるということ。

学校や塾という枠にはまってしまうと、ここら辺りのことがゴッソリすっ飛んでしまいがちではありますが、何かこう、疲れてしまったとき、義務感に囲まれ、不安に苛まれてしまったときなどは、今考えてみたようなことに思いを馳せてみると、案外気持ちが楽になったりするものです。

勉強してもいいし、勉強しなくてもいい。

学んでもいいし、学ばなくてもいい。

他人にとっての勉強は、私にとっての勉強とは少し違う。

だから、そもそも「勉強しなさい。」とは、なかなか言いにくいものなのですね。だってその「勉強」って、何のことなのか、何を指して「勉強」と呼んでいるのかが曖昧で可変的・流動的なわけですから。

親も楽になって、子も楽になる。

ちょっと肩の力を抜いて、「ところで、勉強って何のことだっけ?」から始めてみるのもいいかもしれませんね。



勉強とは
机上と現実

(2)机上と現実。

机の上の勉強というものが、現実の生活をより豊かにより充実したものにするために存在しているのなら、机の上の勉強は机上にとどまるべきではありません。

理科の時間に生き物の学習をしたのなら、図鑑をずっと見ているのも楽しいかもしれませんが、そこはやはり野山に出かけ、実際に生き物を見て触れて感じてみる。

社会の時間に歴史の勉強をしたのなら、過去の出来事を知識として学んで終わらせるのではなく、「現代ならどうなのか?」「現代とどうつながるのか?」を日々の生活の中で少しの時間でもいいから考えてみる。

算数の時間に倍数の学習をしたのなら、この倍数というものは家の中に存在していないか、街中のどこかに見つかりはしないか、ちょっと目を凝らして観察してみる。

国語の時間に物語文の読解の勉強をしたのなら、そこで勉強したことが展覧会に向けて絵を描く場面で役立ちはしないか、と考えを巡らせてみる。

机上の勉強が現実世界とちゃんと結び付きを持ったとき、その勉強はもはや単なる机の上の狭い勉強ではなく、大きな現実世界の中でで応用が利く生きた勉強となってゆきます。

ただ、机の上の勉強は狭い勉強かと言うと、必ずしもそうであるわけではありません。

星座の学習をするとき、教科書の中に星たちが存在しているかもしれませんが、同時に学習をしている子どもたちの心の中、イマジネーションの世界の中に存在しています。

この世でいちばん大きいものは人間の内面世界であると言われるように、机上の勉強がむしろ外側の現実世界よりも遙かに広大であると言うことができます。

英語の勉強をするなら、テキストの中に内容が存在していると言うことができるかもしれませんが、同時に勉強をしている子どもたちの思いがふくらみ、将来の夢がとてつもなく広がってゆくのなら、机の上の勉強は目の前の現実の世界とは比べものにならないぐらい大きなものだと言うことができるのです。

さらに、こんなこともあるかもしれません。

国語の読解の時間に読んだ文章に感銘を受け、大本の本を書店で買い一気に読んだところ、長年理解できなかった自分にとって大切な人の気持ちがスーッと理解でき、その人との関係が一瞬にして良好なものになったのなら…もはやそれは机上の勉強と現実の世界とは密接不可分、渾然一体となっていることを意味します。

ここまで来たなら、息をするかのごとく気付いたら学びが起こり、机上と現実とがうまく連携しながら、理想的な形で勉強と人生が進んでゆくでしょう。


(3)数学・算数は、何のため?

中学・高校の数学とそこへの橋渡しとも言える小学算数。数学と算数は、一体何のために勉強するのでしょうか?

学校でいい成績を取って希望の学校に合格するため。

それもいいでしょう。全科目のバランスを取るためには、数学・算数も無視することはできないですからね。

様々な問題を解く中で、思考力を養うため。

それもいいですね。数学・算数で培われる思考力は、国語や英語・理科や社会などありとあらゆる科目に共通の土台だと言うことができます。

図形の問題が好きだから、とにかく図形だけやる。

それもいいと思います。まずは好きなこと、興味のあることから取り組んでみる。好きなことや興味の湧くことは多くの場合、得意なことに昇華してゆくものです。

絵を描くのが好きだから、綺麗に絵を描くために、数学や算数の素養を高めておきたい。

それも素晴らしいですね。図工や美術・芸術と数学・算数は密接なものですから、数学や算数の世界にも美しさや心ときめくものを感じ取ることができそうです。

単純に数学・算数が好きだから。

それもいい。とってもいいですね。何か意図や目的があってする勉強もよいですが、ただただ好きだからやる。それって最強最高かもしれませんね。



数学算数はなぜ勉強する?
国語を学ぶ意外な理由

(4)国語を学ぶ、意外な理由。

次は国語です。国語は算数と双璧を成す主要科目と言うことができるはずですが、私の経験則上あまり重要視されないことが多いです。

「日本語が分かれば、日本語の文章も分かるんだし、文章が読めていれば問題も解けるわけだら、国語は特別勉強が必要なわけではないよね。」

こんな風におっしゃる親御さんは結構いらっしゃいますね。ひょっとするとその方はそんな感じでずっと国語が得意だったのかも知れませんが…

問題はお子さんの方なんですよね。お母さんやお父さんが国語が得意だからと言って、お子さんも得意だとは限らない。そして、少し厳しいことを申し上げると、お母さん・お父さんが国語が得意だと思っていらっしゃるのは、国語の一部を学習したに過ぎないからかもしれません。国語の全体像、国語という科目がカバーする広~い広~い世界を知ったとき、ひょっとしたらご自分の国語力に自信をなくすかもしれないんですよね。

どうしてこのように少し厳しいお話をするかと言うと、お母さん・お父さんが国語が得意、あるいは得意だと思い込んでいるご家庭の場合、かなりの確率でお子さんは国語が不得意、いや、国語が嫌いなんですね。

なぜなんでしょう?

これは、想像してみればすぐ分かることなんですが、お母さん・お父さんにとって当たり前のことをお子さんができない場合、そのご家庭ではどんな会話が繰り広げられるでしょうか?

「えっ⁉こんなことも分からないの?こんなの、文章読めば書いてあるじゃない。書いてあることをそのまま聞かれていて、聞かれたことに答えるだけなのに、どうして分からないのか、全く理解できない。」

このような会話が延々と繰り返されているわけなんですね。こんな状況で、お子さんは国語、好きになれると思います?無理ですよね。

で、ここからはさらに厳しいお話かつ大事なお話になるのですが、そもそも国語という科目を学ぶ目的って何でしょう?

漢字や言葉・文法といった基礎的な日本語の力を伸ばすため。

それもあるでしょう。

言葉を使って文章の形で書かれたものの内容を、しっかりと理解できるようになるため。

それもありますよね。

あるいは、自らが思い感じたことを文字媒体によって自在に表現する力を付けるため。

それも確かにあるでしょう。

人それぞれ、色々な目的を持って国語という科目を勉強するのだと思いますが、私が国語の授業をするときに、いつも生徒たちに言うことがあるんですね。

それは、

「国語という科目は、相手の気持ちを理解できるようにするためだよ。」

ということです。

もう、お分かりですね。

国語があまりよく分からなくて、国語が苦手で、それでも何とか必死になって勉強しようとしているお子さんに対し、「どうしてこんなことも分からないの?」と、悪気はないのでしょうが、心無い言葉をかけてしまう、お母さん・お父さん。

「私は国語が得意だから…」

本当にそうでしょうか?

ご自身にとって大切な存在であるはずのお子さんの気持ちを理解できず、配慮が足りない言葉を日常的にかけてしまっているお母さん・お父さんは、そのお子さんにとって、「国語が得意なママ・パパ」と映っているでしょうか。

本来、人と人が円滑にコミュニケーションできるようにと、考え出されているはずの国語。

その国語が扱う「言葉」というものは、傷ついた子どもたちを勇気づけ、元気づけることもできますが、

大切なわが子の心を、気付かないところで日々痛め付ける刃となることもあり得るのです。

ですから、ここで原点に立ち還ってもう一度考えてみることが大切です。

「私たちは、なぜ国語を学ぶんだろう?」と。

そこで出て来た答え如何によっては、長年国語が不得意で国語が大好きだったお子さんが、「国語大好き!」と、胸を張って堂々と試験会場に向かうようになることだって可能なのですから。


(5)「考えること」は実は好き。

「自分の頭で考える」ということは、その人の「生き方」そのもの。

お子さんのご家庭にお邪魔して学習指導をしていると、「この子、あまり物事をよく考えていないんですよね。」そんな風に話される親御さんがいらっしゃいます。

それを聞いて、「えへへ。」という形でバツの悪そうな感じになるお子さんもいらっしゃいますが、「お父さん・お母さんに僕の/私の何が分かるっていうんだ?」という顔をなさるケースが多いように思います。

どうしてでしょう?親子なのに、どうしてかくも分かり合えないのでしょうか?

それに対する答えは、それこそ星の数ほどありそうですが、ここでは1つだけ。

「お互いにとって、学びと成長になる組み合わせだから。」

こうとらえてみると、全然分かり合えなかった親子が、少しは分かり合えるようになるのではないでしょうか?

つまり、「家族なのに、理解し合えないのはおかしい。分かり合えなんて信じられない。」ではなく、「家族だからこそ、理解し合えなくて当たり前。だってそういう組み合わせだから。家族だから、分かり合えないのが通常運転。分かり合えたらお祝いしよう。」という考え方にチェンジしてみる

そうすると、あら、不思議。あれだけ鬱陶しいと思い合っていた家族のメンバーが、なんかとてつもなく愛おしくてかけがえのない人に思えてきます。

元来、人はどんなときに「考える」ということをするかと言うと、それも色々な答えがありますが、1つの答えとして、「自分にとって思い通りにいかない状況に直面したとき。」なんですよね。そういうとき人は、様々な角度から自分なりの答えを見つけ出そうとし、その過程で頭をフル回転させることになる。

好きな人ができたとき、デートに誘ってすぐOKをもらえるなら、何の苦労もないですしさほど考えることもないでしょうが、なかなかOKをもらえないことが続いたら、考えますよね?「一体どうしたら、OKをもらえるんだろう?」って。

で、色々と創意工夫を凝らしてようやくデートOKとなったら、それはそれは嬉しいもんです。その現実を、そのゴールに向かってあれこれと考えるプロセス。それは苦痛でも何でもなく、むしろ喜びでありワクワクですよね。

旅においてトラブルはつきものですが、トラブルを何とか乗り越えて無事帰宅したのなら、旅の途中に起こったトラブルは、もうトラブルでも何でもなく、「ネタ」ですよね。失敗談・笑い話のネタですね。

人生という旅をともにする家族においても、それは当てはまります。

毎日ともに過ごしているからこの人のことはよく分かっている。確かにそうかもしれませんが、そうでないかもしれませんよね。

答えを先に出してしまったのなら、その答えに合わせた形でしか物事が見えなくなってしまいます。

しかし、同じ日は二度となく、同じ景色は二度とないように、同じ人も二度とないのではないでしょうか?

万物は流転し、人もまた変化し続けます。

制限時間のあるテストなら、このあたりで答えを、と早めに答えを出すことも必要でしょうが、

人生はまだまだ続きます。人の営みも、続いてゆくのです。

ですから、早急に答えを出してしまうのではなく、答えを見定め、答えに対して自分自身を開いてゆく。

そうすれば、分かり切っっていると思っていたご家族の意外な側面に出会え、また1つ発見と感動が生まれるかもしれませんね。



考えることは実は好き

スペシャル無料講座「考える力をつける勉強法」― 幸せな大人になるためのゴールデンルート ― ④

2.ロボット人間とマニュアル人間。考えることを放棄してしまう、思考パターンとは。

(1)受験生を取り巻く、ある特殊事情。

さて、それでは次に、「なぜ人は、自分の頭で考えるということを徐々に徐々にしなくなっていってしまうのか。」ということにつき、お話をしていきたいと思います。

再び受験生を例にとってみましょう。受験というのはある意味特殊な世界、異常な世界と言ってもいいでしょう、とにかく普通ではない世界だと言うことができます。というのも、本来なら長い間じっくり時間をかけてコツコツと培ってゆくはずの実力を、基本的には「入試本番というタイムリミットがある状況において、できるだけ短期間で、できるだけ簡単に、できるだけ大きく伸ばしてゆく」ということを目的にしているからです。

まあ、それはそれで面白い世界なので、チャレンジしてみることはいい経験、やり方によっては自分自身の成長・発展につながってゆくことも確かです。「受験という限られた枠」の範囲でいかに考える勉強をやってゆくか、こういうことに挑戦してゆくことはとてもワクワクする体験ではあります。だからこそ、私は受験生の指導をすることをライフワークとしてずっとやって来ているのですが、やはり受験生を見ていると気の毒に思えてくるケースが多いです。毎日毎日、来る日も来る日も、ひたすら塾や予備校において教わってきた解法パターンや重要知識の記憶に勤しむ日々。きちんと理解した上での記憶であればまだよいのですが、そんな余裕がある子は決して多くはない。大抵の子は、与えられた知識をただそのまま無理やり飲み込んで、吸収しようとしているような状態。本当に勉強が辛そうです。そしてもちろん、徐々に入試改革がなされてきているとはいえ、基本的には現状ではまだまだ、その記憶がどれだけ完璧にできているのか、それを試す場がテストであり入試であり続けているわけです。

ところがこれは、そもそも無理がある話なんですよね。テストや入試という、いわゆる本来は「実力」を試す場であるはずのところで、実力とは無関係な、記憶力を試している。もちろん、記憶は大事ですよ。特に小さい頃は。理論理屈を抜きに、とにかく覚える。覚えて覚えて覚えまくるうちに、自分の中で、自分の頭の中でポッと開けてくる回路が出てくる。あるいは、古文や漢文など、多くの古典文学に触れてゆくこと自体が、その子の感情面・情操面を培い養ってくれる。そういうことはもちろん、大事なことです。

しかし、いつまでも何でもかんでも記憶・記憶・記憶でいいのか、ということです。どんなに自分の頭を使って勉強したとしても、残念ながらそれは例えば選択式テストの答案用紙の上からは、基本的には見えてこない。なぜなら、覚えているかどうかを試すテストだからです。そうすると、どんなに苦労して自分の頭で考えても、結局は「覚えているかどうか。」が試されるわけですから、子どもたちも「じゃあ、もう手っ取り早く、解き方を覚えちゃえ。だって楽だし。」ってなってしまうわけです。

で、お父さんお母さんも、どうせテスト結果を見せてもらうのなら、30点のテストを見せてもらうよりは、できれば80点のテストを見せてもらいたい、というのが親心というものなんですよね。そうすると子どもの方も、「お父さんお母さんの喜ぶ顔が見たい。」と思うので、ますます解法パターンをせっせせっせと記憶しては、80点のテストをお父さんお母さんに運ぶ、ということがもう、仕事みたいになってくるわけです。こうなってくるともはや、「解法暗記・80点テスト配達マシーン」ですよね。

ところが、あるとき気づくわけです。「あれ!?何かがおかしいぞ。記憶だけが試されているはずだったのに、記憶だけでは点数が伸びていかない。」という事実に。例えば入試直前に数学の問題を解いているときに。例えば、国語の読解問題のテスト直しをしているときに。「ダメだ。全然分からない。どうしよう。もう入試まで時間がないのに、いったいどうしたらいいんだろう。」



ロボット
饅頭

(2)「キミ、だれ?」(笑)

どうしてこんなことになってしまうのでしょうか?どうして、こんな状態になるまで気づかないのでしょう?

それはやはり、「人間は、もういよいよ限界、っていうことになるまで、気づかないし、気づこうとしない。」っていうことがあるからです。私の場合、お菓子ですね。結構お菓子が好きで、家庭教師先で「先生、ここのケーキ、とっても美味しいんですよ。」なんて言われて出されたりすると、ペロッと平らげて、で同じ日にまた別の生徒さんのお宅に行ったとき、「先生、ここのお饅頭、人気なんです。行列ができるぐらい。」なんて言われて出されたすると、またペロッと平らげて…家に帰ってくれば帰ってきたで、「今日はよく働いた。ご褒美に菓子パンでも食べようか。」とやっていたら…ある日自分が写った写真を見たときに、「キミ、だれ?」ってことになりました(笑)。それ以来、お菓子は一切お断りすることにしています。だって、太るのは簡単ですが、ダイエットするのってホント大変でしたから。

いやあ、もう、人間、そんなもんなんですよね。やっぱり。気づかないんですよ。自分のことは。他人のことなら気づくんですけどね。「人は自分を映す鏡」とは言いますが、なかなかなかなか。

ですから、勉強の場合も、特に受験ですよね。受験の場合も、なかなか気づかない。気づこうとしない。「まだ、もうちょっとイケるやろ。」って感じで。イケないイケない(笑)。間違いなくキミが行ってる先、行き止まりやから。そう言ってくれる人がそばにいる場合はまだいいんですが、みんなして行き止まりに向かって突撃しているような状態の場合、結構笑えない話になってくるのではないでしょうか。


(3)成績いい子こそ、実は危険。「○だけちょうだい人間」のたどる悲しい末路とは。

家庭教師をしていると、結構いらっしゃるんです。「成績はいいのに、実力が?な子」っていうのが。「あれ!?この子、こんなに偏差値高いのに、何これ?」みたいな(笑)。で、よくよく見てゆくと、原因が分かります。「ああ、そういうことだったのね。それなら、わかるわかる。」と。つまり、「○をもらうこと」「偏差値を上げること」にばっかりに意識が行っていて、「分からないこと・理解していないことについて、しっかり分かるまで理解できるまで考える。」ということに意識が行っていないんですね。そうするとこれは、残念ながら「基本的には一から勉強やり直し。」、ということになるんです。もちろん、初回授業からそんな風には言わないですが、徐々にそういうことに気づくように促してゆくわけです。いずれにしても、「えー!?」ってなりますよね。「そんなはずはない。私は結構成績取れてるし…ね、お母さん、この先生何か一から勉強やり直すみたいな変なこと言い出してる。何とか言ってよ。」みたいな感じになったり。

でも、お母さんはもちろん、薄々気づいているんです。「この子、確かにテストで点数は取れてるけど、悪いときはとことん悪い。分野によっては全く理解できていないのかもしれない。実力がないんだわ。」と。

ところが、そもそもこの子が「○だけちょうだい人間」になってしまった理由が、実は「お父さんお母さんにほめられたい。」だったりすると、結構厄介なんです。この子にしてみれば、「お父さんお母さんの望むように、点数を上げてきた。」のに、ある日突然「おまえのやってきたことは間違っていた。」みたいに言われるわけですから。騙されたような、裏切られたような、複雑な気分になります。

「じゃあ、私は一体どうしたらいいの?」ここで気持ちを切り替えられればよいのですが、妙に育ってしまった「プライド」が邪魔してしまうと、なかなかスムーズには進みません。逆に言うと、そこを乗り越えさえすれば、もともと勉強習慣はできていて知識自体は持っている子です。「自分の頭でしっかり考えて勉強する」というやり方によって、それまで頭の中でバラバラに存在していた知識を、実際に使える形でつないでゆくことができれば、比較的短期間で実力をUPさせることも可能となってきます。



褒めてもらう子ども
中間・期末病

(4)気づかないと手遅れになる。「中間期末病」は、大人になってからも続く。

「とりあえず急場をしのいで、何とかしようとする姿勢」のことを、私は「中間期末病」と呼んでいます。すなわち、中間テストや期末テストの直前に、それこそ一夜漬けに近い状態でとにかく知識を頭の中に叩き込んでゆくような勉強の仕方です。

このような形で勉強している中学生は結構いるものです。そういった子たちの特徴は、「いい成績を取りたい。」という気持ちが存在し続けているということです。もちろん、その気持ち自体は決して悪いものではないのですが、問題は「成績さえ良ければそれでいい。」という気持ちにつながることが往々にしてある、と言うことです。

つまり、中間・期末テストの成績は良いため、一見学力が高いように思えるのですが、実際実力問題を解いてもらったり、実力テストの結果を見させてもらうと、「あれっ⁉」となることがしばしばある、ということです。

こういう子たちは、英語・数学・国語など、本来思考力を養成することが目的であるはずの科目ですら、何とか「暗記」で乗り切ろうとします。ある程度パターンが記憶できているわけですから、中間・期末テストレベルであれば8割から場合によっては満点を取ることもよくあります。

ところが範囲の広いテスト、実力テストや模擬試験になると、途端にその実力が思わぬ形で露呈してしまうこととなります。1度や2度そういう形が出たぐらいでは、「たまたま調子が悪かったから…。」と、自分自身の真の実力を正面から受け止めようとせず、自分のやり方を変えようとはしません。

そういった何となくの勉強を繰り返してゆくうちに、そのような勉強の仕方で凝り固まってしまい、もはや「似たような問題しか解けない人」となってしまい、高校受験をする際にもひたすら「やった問題が出ますように。やった問題が出ますように。」と、受験勉強がいつの間にか祈祷競争のような様相を呈するという、奇妙な事態になってまいります。

このような子たちの個人指導を依頼された場合には、「何が目的なのか、どこを目指すのか。」ということを徹底的に話し合うことから始めます。そういう子は、最初は旧態依然として自分のやり方にしがみつくこうとしますが、執着している価値観をいったんリセットして新たな価値観をゼロから作り上げることの方がよっぽど楽しく成果につながるということに気付くと、スッキリした表情で勉強に向かうことができるようになります。

そういった話をする際には、「そのやり方はうまくいかない。」という視点から見ることももちろん大事ですが、「そのやり方は、キミらしいやり方か?」「そのやり方は、キミが心の奥底から望んでいるやり方か?」という観点から話をすることも同じぐらい大切です。前者は大人の見方、後者は子どもの見方です。大人的な視点と子ども的な視点。両者のバランスがうまく取れてこそ、本当の意味のやる気・モティベーションが湧いてくるものだからです。


(5)ロボット人間とマニュアル人間。

機械的に作業をこなすことだけしかできない人。指示された通りにしか動けない人。このように表現すると、まるで仕事ができない人かのように思えるかもしれませんが、決してそうではありません。

型式化された繰り返しのタスクについては、何も考えずに手が動き足が動き体が動くようにすることがまず大切です。そのためには、パターン化され得る部分をしっかりとまとめ上げたマニュアル作成は必須であり、先人の作り上げたマニュアルはその分野に携わる者にとってはバイブルとも言うべき重要なものです。

また、自分の以外の人がリーダーシップを取る役割を担っている場合、その人の指示や命令に従わないことは、それこそ船頭多くして船山に上るとなってしまい、下手をすると自分を含めチームみんなに迷惑がかかる事態を招きかねません。ですから、何でもかんでも自己主張を全開にして自分オリジナルのアイディアを叫び続けるのは、慎むべき場面が多々あるだろうということです。

しかし…しかし、です。創造性を発揮すべき場面、個性をアピールすることがみんなの利益になるような場面においてまで、借りてきた猫のようにひたすら黙り続け、周囲の意見にただただ同調するのみというのでは、信頼も信任も得ることは厳しいでしょう。

受験勉強においても、全く同じことが言えます。受験勉強において型式化されたタスクとは、場面が変わり問題が変わったとしても普遍的に成り立つ経験則から導き出される公式・ルールに則った勉強内容のことを指します。そうした勉強内容につき、ゼロから自分でオリジナルの方法を編み出そうとする努力は、時には必要だと言えるかもしれませんが、多くの場合はする必要のない回り道をすることとなり、賢明な選択ではないことでしょう。

ですからそういう勉強内容については、金太郎飴的な定式的練習を厭わずに愚直に問題を解き続けて、当該学習項目を自分のものとしてくという態度が求められます。ここのところに関しては、「ロボット人間」で構わない、いや、むしろロボット人間、解答マシーンと化すことこそが正解だと言うことができるでしょう。その際は取扱説明書・操作マニュアルに相当する公式・解答解説集が本領を発揮することでしょう。

ここにおいては、「ロボット人間」「マニュアル人間」たり得ることこそ、血の通った人間としての自分が心から願ってやまない志望校合格のために必要不可欠です。

基本を十分に理解した分野・学習項目については、科目を問わずこうしたことが当てはまります。

一方、そういった単純・機械的手法がそぐわない場面も、もちろん存在します。それは、新しい単元を学ぶときです。

「えっ⁉新しい単元を学ぶときこそ、内容が全く分からないのだから、繰り返し学習が大事なんじゃないの?」そう思うかもしれませんね。もちろん、新しく学習した単元は一度理解し身に付いたと思っても、時間が経つと内容がすっかり頭から離れてしまう、ということが少なくありません。ですから、何度も何度も学習内容のおさらいをすることが極めて大切です。

しかしそれは、あくまでも「基本を学び終わった後」の話です。基本を学び終わった後は、自分の中で当たりまえになるまで反復練習をすることが大切ですが、基本を学ぶまさにその時には、頭をフル回転させ、目の前の学習内容に対して徹底的に考え抜くことが何より大事です。なぜなら、そのプロセスを通して当該学習項目の知識とその項目に対応する思考力が身に付くからです。

かけ算・割り算をおろそかにしてしまうと、分数がなかなか身に付かなくなり、分数をおろそかにしてしまうと、比の単元が身に付かなくなり、比の単元をおろそかにしてしまうと、比を応用した文章題全般が身に付かないということになってしまいます。

文法をおろそかにしてしまうと、文の意味がつかめなくなり、文の意味をおろそかにしてしまうと、段落の意味がつかめなくなり、段落の意味をおろそかにしてしまうと、文章全体の意味がつかめなくなり、文章全体の意味をおそろかにしてしまうと、要約問題など文章全体に関わる設問が全く分からない、ということになってしまいます。

算数をおろそかにしてしまうと理科が分からなくなり、理科をおろそかにしてしまうと国語が分からなくなり、国語をおそろかしてしまうと、社会が分からなくなり、社会を含め勉強の基本をおろそかにしてしまうと勉強自体が嫌になってしまいます。

このように、1つをおろそかにしてしまうと他の様々な分野や科目にその影響が波及してゆき、気付いたら膨大な量の「不得意」を抱えることになりかねません。

ですからどうか、新しく単元を学ぶときには、新鮮な気持ちで頭もニュートラルにして、楽しく遊ぶ中で初めて勉強というものに気付いたら触れていた幼子のような純粋な態度で学習項目に向かうようにしてください。そうすれば、当該学習項目の方からあなた自身に優しく話しかけてくれるはずです。



マニュアル
自我

(6)AI時代。「考える大人」として、社会を歩く。

昨年からの生成AIブームに始まり、もはやビジネスの世界では「AIを使うかどうか」ではなく「AIをどのように使うのか」ということに議論がシフトしています。かつては計算タスクをこなすものとして算盤が計算機に取って代わられたように、私たちがこの両手とマウス・キーボードでこなしていた作業と演算の大半は、もはやAIがこなすのが当たり前の時代になっています。

そんな中、私たち人類はいかにして考え、いかにして仕事をしてゆけばよいのでしょうか?

その答えは、「他者とは一線を画するかけがえのない私」とは一体何者か、という哲学的問いから派生して出てくるものでありましょう。つまり、前代未聞のこのAIブーム、いや、AI時代の到来によって我々人間は各々の自我とそれに根ざした個性というものと否が応でも向き合わざるを得ないのです。

全く同じ型のスポーツカーに乗っている人同士が決して同じ人間ではないのと同じように、全く同じAIを使っている人同士も決して同じ人間ではないのです。

エレキギターを演奏する人は自分の手足のようにギターを操りますが、決してその手がギターと文字通り一体になるわけではないのと同じように、AIを自分の分身のように使いこなす人がAIと一体化してしまうことはあり得ないのです。

散髪屋で、便利なバリカンに嫉妬し焦りを覚える理容師さんが存在しないのと同じように、パソコンの画面の前で、便利なAIに嫉妬し焦りを覚えるビジネスマンは存在しない…はずです。本来は。

しかしなぜかAIの場合だけ、「自分の仕事はAIに奪われてしまうのではないか?プログラミングができないと自分の存在価値はなくなってしまうのではないか?」そんな不安を胸に抱いてしまう人が少なくありません。

ですが、考えてみれば妙だと思いませんか。不安になったらすぐに転職するというのなら、今後の人生で一体何回転職が必要になるのでしょうか?人類皆がこぞってプログラミングに勤しんだのなら、一体誰がそのプログラミングに必要な電力を供給してくれるのでしょう?

全てのものには個性があり、その個性に適した役割が存在しています。孔雀のように色とりどりの翼を望むからと言って、タンチョウヅルは自らの翼を虹色に染め上げるでしょうか?「こんな鳴き声では可愛がってもらえない。」と言って、セントバーナードがトイプードルの鳴きまねを練習するでしょうか?

子どもたちは、見ています。私たち大人がどう感じ、どう生きているのかを。他者と自分を比べることが力になるのなら、その比較の視点は大いに持つべきです。「あの人のこういうところが素敵だな。自分も見習おう。」「あの人は、こうすることができる人だな。素晴らしいことだ。自分も実行してゆこう。」これは、他者という鏡をうまく活用できている例ですね。こういう場合実際には、他者という鏡を通して人は自分自身を見つめているのです。

しかし、他者という鏡をいつの間にか自分の不安と恐怖を映し出すスクリーンのように見てしまうと、そこから悲劇が始まります。嫉妬。妬み。嫉み。貪欲。強欲。こういった負の感情を持つとき、人は自分らしさを失います。自分という人間を見失います。

そうなってしまったときは、まずは深呼吸をして、過去でも未来でもあなく現在の自分をそっと見つめてみます。そうすると、今の自分という存在はあり得ないぐらいの数の偶然という名の必然と奇跡と縁によって出来上がっていることに気付くでしょう。

そういった時間を一瞬でも持てたとき、その人は本当の意味の思考を得ることができます。不安から出た雑音でも恐怖によって生じた騒音でもなく、そっと自分に語りかけてくる優しい声。それこそがあなた自身の本来の思考の声であり、あなた自身なのです。

そういったピュアな状態により近いのは、もちろん私たち大人ではなく生まれてからまだ長い歳月を過ごしてはいない子どもの方です。しかし、私たち大人にも、私たち大人の内面にも、ちゃんと赤ちゃんのときから大切に慈しまれ育てられてきた「内なる子ども」が存在しています。好きな漫画を読んだとき、大声で笑ってみたとき、突然のことにビックリしてしまったときなど…人が本来の自分、優しくて純粋無垢な自分に触れる機会は毎日訪れています。

「子どもを見守るのが大人の役目」。もちろんそうですが、子どももまた私たち大人の一挙手一投足に目を向けています。言葉で語れることと、そうでないこと。伝えるべきことと、伝わること。

この地球において古来から受け継がれてきた大切な何かとともに、今日もあなたからあなたのお子さんに大切な何かは受け継がれているのです。


(7)不登校の子。学校に通うことがゴールとは限らない本当の理由とは。

何かの出来事がきっかけとなって、学校に行かなくなる。あるいは、明確な何かがあるわけではなかったが、ある日突然、学校に行かなくなる。行けなくなる。我が国においては、不登校の子どもたちの存在が社会問題となってから久しい今日です。

しかし、よくよく考えてみると、不登校は果たして「問題」なのでしょうか?もちろん、いじめや体罰によって不登校になった子どもたちの親御さんや家族の方々は、想像を絶する精神的・肉体的苦痛とともに日々の生活を送っていらっしゃることでしょう。「一体いつまでこんな状態が続くんだ?もう、耐えられない。このままでは家族全員が倒れてしまうか解散するしかなくなってしまう。」そのように追い込まれた状況になることも少なくありません。

ただ、そういった辛い状況の最中にあっても、ふと気付くことがあります。「なんか、うちの子、成長したんじゃない?」「なんか、ついこないだまで気にしてたことが気にならなくなってるみたいだし、なんか、こないだまで無理だったことができるようになってる。」あるいは、「ものすごく理不尽なことばかりで、我慢の限界だって思ってたけど、家族みんなで久しぶりに会話をたくさんしたし、お互いの思いも確認できた。これって、かけがえのないことだよね。」と思ったり。

こんなとき、「この子の不登校は『問題』なのかな?解決すべき課題なのかな?なんか違う気がする。」と思えてきたりします。そうすると、「確かに、学校の友達ができないままでいるのは寂しいことかもしれないけれど、今は家族の絆を大切にして、この子らしさ、この子のペースを見ていきながら、この子が心身ともに元気いっぱいになれるサポートを家族全員でやってゆくことがベストなのかもしれない。」という気持ちが湧き上がったりもします。

そうすると、「何が何でもとにかく再び登校できるようにしてゆかないと。」と、追いつめられていた精神的苦悩・肉体的苦痛に耐えられなくなっていた状態から、少し力の抜けた、もう少し長期的な視野で長い目でお子さんを見守り支援してゆく環境が、家族の中で作られることとなります。

学校に行くもよし。学校に行かぬもよし。勉学に励むもよし。自分のペースで無理なく勉強するのもよし。

自分はどうしたいのか。分からない。じゃあ、今は考えるのをやめておこう。

自分で考えるのは嫌だけど、誰かの考えを聴くことはやってみたい。じゃあ、今は聴くことをしてみよう。

とにかく今は学校のことを考えたくない。考えられない。じゃあ、何も考えずに外に出かけてリフレッシュしよう。

何が正解かは分かりません。そもそも、正解を出そうとすることすら必要ないのかもしれませんし、やるべきではないのかもしれません。

考えすぎもよくないけど、何も考えないのも余計に疲れる。

これは考えられるけど、こういうのは今はいいかな。

その時々に応じて。気分に即して。

そんな中でも、いつでも忘れないでいたいことがあります。それは、人生は長く、人生は一瞬であるということです。

長い人生。これからどうにでもなるさ。だから焦ることはない。

今という瞬間はもう二度と訪れることはない。だからひと時ひと時を大事にしてゆこう。

家族みんなのバランス感覚を大切に。それぞれの個性を大切に。

答えは、私たち一人一人の中に存在しています。



不登校の子
ターニングポイント

(8)「考えない方がラク。」って本当か?誰にも訪れ得る、ターニングポイント。

ある男の子(Yくんとします。)の話です。Yくんは、小学2年の後半から小学3年にかけて、色々なことにつきうまくいかないことや悩み・なかなか決められないことが出てくるようになりました。もともと好奇心旺盛であったため、勉強も運動も、趣味も遊びも、あれもやりたい、これもやりたい、となっていた一方、何か軸になるようなもの、「これだけは形にしておきたいな。」と思えるものが出てくるといいな、と考えることもありました。

そんな風にいろいろと悩んだり迷ったりして2年以上の年月が経ち、「お前、結局どうするんだ?あっという間に小学校卒業になるぞ。」とお父さんに言われたりもしていました。しかし、何か目標に向かって集中して取り組もうとすると、なぜか「これが僕のしたいことじゃない。」そんな思いが頭をもたげることが続き、もう一体自分は何がしたくて何が嫌なのか、ホントはやりたいけど面倒くさいし楽したい気持ちが勝ってしまってやる気が湧かないだけなのか、何が何だか訳が分からなくなってしまいました。

そのような煮え切らない状態のYくんをお父さん・お母さんは半ばあきらめたような状態で見守っていましたが、ある日、いつものように色々と話をしている中で、「今はこれ。これが達成できたらこれ。これが実現したら、これにチャレンジする。」という形で明確な答えをYくんが出したのです。「えっ⁉ホントにそれでいいのか?」半信半疑でお父さん・お母さんは彼に尋ねましたが、決意が揺らぐことはありません。

あまりにもあっけなく決めてしまったので、なんだか拍子抜けしたみたいになってしまいましたが、その日以来、Yくんはまるで人が変わったように真っすぐ目標に向かって集中するようになったのです。

さて、ここで疑問が出てきますよね。「決意した日、Yくんは文字通り生まれ変わったようになったのか?」ということです。その答えはイエスとも言えるし、ノーとも言える気がしています。

大きな決断を下し、そこから見違えるように1つの目標に向かって努力を継続できるようになったという意味では、その決断を下した瞬間に生まれ変わったと言えるほどの大きな変化があったと言えるでしょう。

一方、その大きな変化は実は日頃からYくんなりにずっと考え続けていたからこそ、とろ火でコトコト煮込んでいた料理がじっくりゆっくり時間をかけて出来上がるように、毎日ちょっとずつの変化がゆっくり時間をかけて大きな変化へとつながっていったとも言えるかもしれません。

どちらが正しい答えなのかは、ひょっとするとYくんにもずっと分からないままかもしれませんね。

とにかく1つ言えることは、「何の準備もしていないのなら、物事は偶然任せになってしまう。」ということです。時には流れに身を任せることが望ましいときもあるかもしれませんが、人生という航海は選択と舵切りの連続である以上、やはり毎日コツコツと意識的に考え選び続ければ、必ずや、意識的に選択した自分の人生というものが少しずつ出来上がってゆくことでしょう。

受験本番で迷ったとき鉛筆を転がすのも悪いとは言いませんが、できればそういった大事な場面においては、いかにして選択すべきか、という判断基準を意識的に持てるよう、日々の勉強の中で練習しておくことをおすすめいたします。