第2章 SWEETNESS 優しさ
みんながそっと見守る、寛容な社会
第1章においては、「子どもと大人がともに未来を創造する社会」について見てきました。
大人たちが子どもたちの無限の可能性に目を向け始め、大人たち自身楽しくワクワクする毎日を送りながら・・・
子どもたちも面白くて素敵すぎる日々を過ごし、子どもも大人もみんなが感謝と喜びと胸いっぱいの希望をお互いに分かち合える世界。
そんなふうにして、みんなが自分自身に対して自然に優しく接するようになってきたら、希望を失ってしまった人たち、希望を失いかけている人たちに対しても、優しく接することができるようになります。思いやりを持つことができるようになります。許すことができるようになります。
「あの人の生き方はおかしい。人とはこうあるべき。」と1つの考え方に固執するよりも、「そういう人もいる。いていいんだ。」と、柔軟性と余裕を持って向かい合うことを選択するようになります。それは、「無責任な放任」とはちがい、「相手のことを思いやりつつ見守る」という寛容な心から発した勇気ある行動です。
小さな親切心が生み出す大きな結果
例えば、不登校の子の場合。
「通おうと思えば通えるはずだ。なのに、キミは逃げている。」と決めつけ突き放すのではなく、「今はそういう段階なんだね。準備段階、休憩時間なんだね。」とそっと見守る。
もちろん、本当に「逃げ」であると判断した場合には、それを指摘する勇気も合わせ持つ。
でも、「逃げ」ではなく、「充電期間」であるならば、それを経験していることを認めてあげる。「問題に対してしっかり向き合うために、今は立ち止まっているんだな。」と気づいている。知っている。
そういう温かい、親切な心から出た行動は、すぐには明確な結果としては見えないかもしれませんが、長い目で見れば、とても大きなことにつながっていることがわかります。
私の妻の場合、高校1年生のときにある日突然登校しようとしても体が動かない状態になってから、高校の3年間、不登校の日々を送ることとなります。
お父さんやお母さんは、当時高校生だった妻を大変心配して、様々な働きかけをしたり、時には泣きながら本音をぶつけ合ったり、共に悩み、葛藤してくれたそうです。
そんな中、小学校からの親友が、たまに妻の家を訪ねてきては、他愛もない雑談をして帰っていく、ということをしてくれました。友だちが雑談をしている間、妻は、相づちを打つこともなく、何の反応もせずに無関心な顔をしていたといいます。
そのときは、家族や友だちがしてくれたことがすぐ何かの行動に結びついた、ということはありませんでした。
ところが、不登校から3年の月日が経ったある日、妻がふと「私、何やってるんだろう?こんな状態でいたいわけじゃない!私を生きたい!」と思い、保育士を目指そうと動き始めます。その沸き立った強い思いが原動力になっていたのはもちろんですが、そう思い行動できるようになったのは「私がどんな状態でも、根気よく働きかけ、信じて見守ってくれる家族、変わらず私のことを忘れず気にかけてくれている友だちがいる。」という安心感が大きな心の支えとなっていたことに後々気づいたそうです。
見返りを求めず、たとえ何の反応もなかったとしても、ひたすら妻の家に通い続けた友だち。親切な心から出た小さな行動が長い時を経て、大きな結果に結びついた例といえるでしょう。
みんなで声をかけ、話を聴き、しっかり向き合う 「助け合いの循環社会」
不登校に限らず、元気のない子どもたち。
本当にやりたいことが分からない大人たち。
いつも退屈で、「何かおもしろいことないかなあ。」と外に求めてばかりいる人たち。
人生が同じことの繰り返し、流れ作業のような毎日だと感じている大人たち。
当たり前のことに慣れてしまい、感謝の気持ちを忘れてしまった子どもたち。
何もする気が起きなくて、無気力になったり引きこもりになってしまったりしている人たち。
いつの間にか「どうせ…」「疲れた」「だるい」が口ぐせになり、あきらめることばかりしている子どもたち。
そういう人を見かけたら、そういう人が周りにいるのなら…
最近少し元気のない子どもたちに対しては、心を込めて挨拶をする。笑顔で挨拶をする。
本当にやりたいことが分からない大人たちや、何もする気が起きない人たちに対しては、「自分がこうなんだから、相手もこうあるべきだ。」と決め付けるのではなく、相手の立場に立って相手を思いやって向き合い、話をする。もちろん、場合によっては勇気をもって背中を押すことも必要でしょう。でも、できるかぎり、相手のペースを、その人にしかないリズムを感じつつ、尊重する。
「どうせ…」「疲れた」「だるい」が口ぐせになってしまった子どもたちに対しては、まずしっかり向き合う。存在をしっかりと認めてあげる。話を聴かせてもらう。
そういったことを、誰に言われるでもなく、みんなが自ら進んでできるような社会になったとしたら。
「キミは1人じゃない。」「僕たちは、キミがそこにいること、わかっているよ。」「いつでも私たちが一緒にいるよ。」と、1人1人が存在を認められたとしたら。
どんなに元気がなくなっていた人も、少しずつ癒され、自らの道を歩みはじめ、やがては自分で自分のことを本当の意味で認めることができるようになることでしょう。
そうしてゆくうちに、心の底から湧き上がってくるような感謝心。「○○ちゃん、可愛いね。」とみんなから喜んで迎え入れられ、愛され大切にされている、生まれたばかりの赤ちゃんが持っている、あの「まっさらな心」。そういう心を持つようになった人は、今度は、「どうせ私には…」とあきらめている人に対して、「大丈夫。私にもできたんだから、きっとあなたにもできる。」と、逆に勇気づける側になってゆくことでしょう。
そういった循環がうまくなされる社会は、「ずっと遠い未来」にではなく、「もうすぐそこ」にまで来ている、と私たちはいつも感じております。
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