いつの間にか輝くことをやめてしまう、ちいさな星たち

<ただそこに存在しているだけの喜びと幸せ>

「オギャー♪おぎゃー♪」と生まれてから、私たちは、お母さんお父さんおばあちゃんおじいちゃんお兄ちゃんお姉ちゃんお友達などいろんな人に囲まれながら、すくすく育ってゆきます。

 

本当にかけがえのない、大切な大切な宝物として、周りの人たちみんなに見守られ、助けられ、愛されて育ちます。

 

「生まれてきてくれてありがとう。」

 

何かができるから、とか、こんなことをするから、とか、そんなこととはまったく関係なしに、ただいるだけで、ただただ存在しているだけで、可愛い。

 

私たちは、小さな子どものとき、晴れた日にお日様を見るだけでとってもワクワクして、走り回りたくなります。近所のお友達と三輪車で遊んでいるだけで、もう時間が経つのも忘れるほど楽しくって、ウキウキして、「バイバ~イ♪」て言うまでぎりぎりまでどろんこになってはしゃぎまくります。

 

もちろん、危ないことをしたときやお友達に迷惑がかかることをしたときなどには、お母さんやお父さんにこっぴどく叱られるときもあるだろうけど、それでも次の瞬間にはけろっと忘れて、また楽しいことを探して、やって、ゲラゲラ笑いながら夢中になって遊びだします。

<快晴は少しずつ晴れとなり、晴れ時々くもりとなる>

幼稚園に行き、小学校に行き、「おべんきょう」や「ならいごと」が始まりだしてからは、少しずつ状況が変化しだします。

 

今までは経験しなかったような理由でお母さんやお父さんに叱られるようになったりします。

 

「宿題やったの!?まだやってないの?はやくしなさい!」

「なんでこんなこともできないの?こないだやったばっかりでしょう?△△ちゃんはできているわよ。」

「もー、どうしてこんな悪い点数しか取れないの?もっとしっかりがんばりなさい。」

 

毎日どろんこになって走り回っているだけで楽しかったあの頃。

何をするわけでもないのに、周りの人みんなから可愛がられ愛されていた日々。

 

そんな記憶がふとよみがえりながらも、「でも、お母さんお父さんが言うように宿題もしないといけないし、勉強や練習もしないといけない。」と自分に言い聞かせながら、子どもたちは言われた通りに勉強をしたり習い事の練習をしたりします。

 

そして、だんだん、本当に少しずつではありますが、あの天真爛漫な、見ているこっちまでホッとして、癒されて、ニコニコしてしまうような、「天使の笑顔」が、その光を失ってゆくことになります。もちろん、そうではない場合もたくさんありますが、そういう場合も、たくさんあります。

<もっともっとももっとのうち!?>

「お友達も行っているから」、とか、「算数のテストが悪かったから」とか、「チラシを見て」とか、「将来役立ちそうだから」とか、「先生がかっこよかったから」とか(笑)、いろいろ理由・きっかけはありますが、塾や習い事などに通いはじめます。

 

今までは学校の宿題とあと少しの勉強でよかったものが、塾や習い事に行くようになってからは、勉強の量も増え、内容も高度になり、スケジュールがどんどん過密になってきて、「子どもが社長でお母さんが秘書」状態になります。おまけに、ちょっと勉強をがんばったりがんばって練習したりしようものなら、もう大変です。

 

「すごい!○○くん、かしこいじゃない。もっと勉強してもっといい点数を取りなさい。」

 

「おお!□□ちゃん、すごいじゃないか。やっぱり□□は、やればできるな。もっと練習して今度はあの大会で優勝しなさい。」

 

(笑)

 

もっと練習してもっと勉強して大会でいい成績を残してテストでいい点を取れば、もっと練習しなさいもっと勉強しなさいと言われ、

 

もっと勉強してもっと練習してもテストで大会で発表会でいい点いい点数が取れなかったら・・・やっぱりもっと勉強しなさいもっと練習しなさいと言われる。(笑)

 

(ここで「いい成績」「いい点」とは、「お母さんお父さんの希望通りの成績・点」という意味です。)

 

もっと、もっと、もっと・・・

 

子ども自身が「行きたい!」「やりたい!」と言って通い始めた場合は、どんなに大変で困難でつらい状況が訪れた場合でも「何くそ、負けてたまるものか!!」と自らを奮い立たせられるのでしょう。

 

しかし、「お父さんお母さんがしたかったけどなかなかできなかったりやりきれなかったこと」を子どもにさせたい、という場合は、必ずしも子ども本人に合っているとは限りません。

 

また、子ども自身に合っている習い事や塾であったとしても、自分ができる以上の我慢をして無理に無理が重なる一方の状況である場合は・・・

 

徐々にではありますが、子どもたちの目が顔が変わりはじめます。声の大きさ声のトーンが変わりだします。だんだん外で遊んだり純粋に自分が好きなことをすることがなくなり、遊んでいるときもどこかさみしそうな顔をしたりするようになります。

 

しばらくたつと、遊ぶときは家の中、それも遊ぶ相手は友だちではなく、テレビの画面、ゲーム、漫画といった人間ではないものになっていく場合もあります。そして、ひどい場合には、遊んだり楽しそうにゲラゲラ笑ったりすることすらほとんどなくなり、最悪の場合、顔はまるで「ゾンビ」のようになってしまいます。私が小学6年生のとき、そうでした。

<くもり時々晴れがにわか雨になってしまう理由>

なぜ、「天真爛漫の天使」だった子どもが、「生きているとは思えないようなゾンビ」になってしまうのでしょうか?

 

理由はいろいろあります。

 

遊びたいし自分のしたいことがいっぱいあるのに、それを我慢して「つらい練習」や「勉強」をさせられているから。

 

がんばったらお母さんお父さんや先生たちにほめらてもらいたいのに、ほめられるどころか叱られる一方だったり、ほめられたとしても少しだけだったりピントがずれていたりする(笑)。

 

子どもたちは、家族→保育園、幼稚園→小学校→習い事や塾と、世界が広がる反面刺激も増えてゆき、それにともなって楽しみも増える一方で、悩み事も増えます。友だちや先生との人間関係。ひどい場合には、いじめ。暴力。暗い気持ち。疎外感。倦怠感。うつ病。などなど。

<誰も気づかない、内なるボディブロー>

理由はどうあれ、ゾンビとまではいかないまでも、子どもたちは、ついこないだまで持っていたはずの子どもらしさを失い、「夢とワクワクとしたいことと楽しさと喜びとギャハハハハ!」を忘れてしまい、「いちばん好きな○○はなに?」ときかれても、「どれもふつう」と答えるようになってしまいます。

 

もちろんそうではない子もたくさんいます。勉強をたくさんやっていたって楽しそうに勉強していて輝きまくっている子もいるし、勉強以外の「何か」、サッカーとか、野球とか、ピアノとか、バレーとか、絵を描くこととか、自分の好きなことを純粋に楽しんで、ワクワクして毎日を過ごしている子どもたちだってたくさんいます。

 

でも、子どもらしさを失い、毎日足を引きずるようにして学校に行き、塾に行き、習い事に行き、がんばって勉強はしつつもなかなか思うように成績が伸びず、怒られ叱られ、楽しくない毎日を繰り返しているだけの子どもたちもたくさんいます。

 

そして、そういう子どもたちの多くは、「こんなもの」だと思っていて、SOSを出そうとはせず、あるいは出したとしても遠慮がちに出すだけだったり、あまり心を開かず分かりにくい出し方だったり・・・

 

お母さんお父さんや先生に「大丈夫?」ときかれたとしても、「うん、大丈夫。」と答える日々。

 

もちろん、お母さんやお父さんたち、先生たちも、そんな子どもたちの様子に気づかないわけではなく、「大丈夫なのかな?もう少し練習量勉強量を減らして○○のペースにしてあげようかな?やっぱり受験などやめたほうがいいのかな?発表会など出ずに純粋に楽しみだけのために習い事をしたほうがいいのかな?以前みたいに毎日遊ばせていたほうがいいのかな?」など迷い、悩みつつも、「どうせここまでがんばってきたんだから。大丈夫。もう少しだし、みんながんばっているんだから、○○だって、がんばれる。」と思い、習い事や勉強を続けあるいは受験したり大会に出たりという選択をし、気づけば子どもたちに対して厳しく接することがまた続いていったりします。

 

わが子や教え子を思い、愛するがゆえに、厳しくする。

 

それ自体は大切なことであり、素晴らしいことです。

 

ところが、子どもたちがそれをどう受け止めているのか、ということにスポットが当たらないことも多々あり、また、子どもたち自身も自分たちが受けている「内なるダメージ」「気づかないボディーブロー」を見過ごし続けるということも往々にしてあります。

私たち大人が、今、できること

私の仕事は、そういった「内なるボディーブロー」「気づかないうちに負っているダメージ、心の傷」にまず気づいていただくことだと考えております。

 

「おーい、みなさ~ん、ちょっと立ち止まってきいて下さ~い。ここに傷がありますよ。これを放っておくと、どんどん深く大きくなっていって、大変なことになりますよ。」

 

と言って、内なるダメージ、隠された問題、成績が思うように上がらない本当の原因に気づいていただくことです。

 

あるときは、家庭教師など個人指導をしているときに子どもたち自身の話や態度・様子などから。

 

あるときは、お母さんやお父さんからのご相談やお話の内容から。

 

またあるときは、読書会や合宿など、何人かの子どもたちで集まった際の子どもたちの様子から。

 

きっかけはいろいろです。

 

また、見つけたものをどうしてゆくか、ということについても本当に様々です。

 

相談を受けて、その場で家族全員集まっていただき、解決に向けた話し合いの場を設けたり、

 

お母さんやお父さんや場合によっては塾や学校の先生にお話をさせていただいた上で、子どもたちにもお話をし、それぞれがそれぞれできる範囲でできることをするようにしていただいたり、

 

読書会や合宿の中で気づきや癒し、解決につながるような授業、ワーク、体操、パステルアート、お食事会をしたり・・・

 

こういった文章の形でいろいろなことをお伝えしてゆくことも、その1つだと考えています。

<大人の事情と子どもの事情>

どんな大人も必ず子どもを経て大人になります。

子どものときは、子どもの気持ちが分かるし、「なんで大人たちは自分の気持ちをわかってくれないんだろう?」って思ったりもします。

 

ところが、自分が成長し大人になると、どうでしょう!子どもの頃、「なんで自分の気持ちをわかってくれないんだろう?」と思っていた、あの「大人」になってしまっています。

 

かつては子どもだったはずなのに、いつの間にかその頃のことは忘れ、子どものときの心を失い、「大人」の論理で動くようになります。

 

子どもは親の背中を見て育ちますが、親や大人も子どもの姿を通して新たに学び、成長させてもらいます。

<共に育つ。共育。響育。そして協育。>

「お互い様」の精神を持ちつつ、私たち大人が手に手を取り合ってみんなで協力し合いながら、子どもたち1人1人のSOSをしっかりと受け止め、ちょっとした変化にも目を向け続ける。子どもたちを抑えつけるのではなく、子どもたちの気持ちを理解し、子どもたちの中にある無限の可能性の扉を優しくノックしてあげる。そんな社会を一緒につくってゆけたら最高だな、と思っております。

 

そのために大人たちが今、できること。

 

ほんとにたくさんあると思います。

 

それは、しばらく使っていなかったのですっかり埃をかぶってしまっていた電子ピアノを引っ張り出してきてくることかもしれません。(すみません、私のことです(笑)。)

 

長らく行っていなかった「お母さんお父さん」2人っきりでの「おデート」に恥ずかしさを隠しながら久しぶりに行ってみることかもしれません。

 

ずいぶん会っていなかった学生時代の友だちたちと会って、ハメを外して一晩中どんちゃん騒ぎをして奥さんに怒られることかもしれません(笑)。

 

あるいは、「ひでちゃんマン」とかいう人が主催する読書会に参加して、ふだん出会うことがないような人たちと、ふだんは絶対にしないような会話をして盛り上がりまくることかもしれません。(お申し込みはこちらです(笑)。)

 

もしかしたら、日ごろはあまりしたことのないボランティア活動に参加してみることかもしれません。

<子どもだって、負けちゃいないぞ!>

そんなふうにして、私たち大人たちが楽しすぎておもしろすぎてワクワクしまくるような状態で毎日を過ごしていたら、子どもたちは、きっと僕たちに嫉妬して(笑)、

 

「お母さんばっかりゲラゲラ笑って、そんなのずるい!」「お父さん、なんか最近楽しそう。僕もまぜてよ。」と言うかどうかはわかりませんが、

 

子どもたちは子どもたちで、自分が本当に楽しいこと、自分が没頭できる何か、「ひょっとしたらこれするために生まれてきたんじゃなかろうか」なんて思ってしまえるほどのやりがいのある夢・目標・熱い何かをやり出すかもしれません。

 

日本中の、いや、世界中の子どもたちが、大人たちが、夢と希望と感謝と喜びと、そして幸せに満たされていたら、

 

もう、何も恐れることなどないはずです。

 

どんなことでもできる気がする。

 

1人じゃなくて、みんな一緒に。

 

 

 

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【第2章  SWEETNESS 優しさ】

 

【第3章  SOURCENESS 自分自身の本質】