第3章 SOURCENESS 自分自身の本質

明確な意図を持ち、それを現実にすることができる力をいま。

「教育」とは何か?

<明確な決断をできる力を育てる

私たちは、人生において様々な選択肢の中から1つのことを選び出し、一日一日、一時間一時間、一瞬一瞬を生きています。

 

その中で、明確に「これ!」という場面もあれば、「こっちかな。あっちかな。でもあっちはできないかもしれないし。だとしたらこっちか。それとも・・・」と迷い悩み続ける場面もあることでしょう。

 

そんな場面で、

 

明確な決断ができるようにしてゆく。

 

そして、決断をしたあとは、迷わない。

 

こういうことができる力は、一体どこからやってくるのでしょう?

 

それは、

 

「自分にはそれができると信じている。知っている。」

 

ということだと思います。

 

たとえば、小さな頃から高所恐怖症でとにかく高いところが苦手だった人が、いきなり「エベレストに登ろうよ!」と誘われたとしても、「無理!絶対無理!」と断ることでしょう。

 

でも、小さな頃から山が好きで、緩やかな山から少し険しい山まで、危険な場面にも遭遇しながら登ってきた人が、「エベレストに登ろうよ!」と誘われたとしたら、「う~ん…難しそうだけど…やってみようか!」となるのではないでしょうか?

 

そのためにも、

 

「小さい頃からいろんなことを経験し、その中から気づきと学びを積み重ねてくること」

 

が大切だと思います。

 

いろんなスポーツをやってみる中で、「僕は、野球ならまあまあできるけど、サッカーはどうも苦手だな。」とか。

 

いろんな楽器に触れてみる中で、「私は、リコーダーは好きだけど、歌を歌うのはあんまり好きじゃない。」とか。

 

あるいは、はじめて訪れた外国で、「わたし、外国って大好き!なんかいろいろおもしろいことがいっぱいあるから、ワクワクする!」とか。

 

そういう経験を積み重ねてゆき、その中で大人たちが子どもたちの様子を観察したり、話に耳を傾けたり、自分の経験を語ったりしてゆくことにより、子どもたちは、だんだん「自分ってなに?」っていうことを作り上げてゆきます。

 

だから、どんな結果になってもいい。とにかく、やってみる。

 

そのような経験を多くしてきた子は、大人になったとき、必要な場面で「私はこれ!」とはっきりと明確に決断することができるようになります。

 

そして、自分が決断したことについては、自ら責任と自覚をもって、進んでゆきます。迷ったり、ブレたりするこということがありません。

 

 

<しかし、ブレてもいい。揺れてもいい。>

 

 

「揺れる」ということは、「芯がある」ということ。「軸がある」ということ。

 

軸があるのなら、ブレても大丈夫。

 

右に左に前後にななめにブレたとしても、

 

そこに軸があるのなら、必ず元に戻ってきます。

 

小学校・中学校・高校と進むにつれ、反抗期を迎え、お父さんやお母さんのことが煙たくなり、何を言われても「うるせーよ。黙っとけよ!」と暴言を吐いている子がいたとしても、

 

必ず、戻ってきます。

 

お母さん・お父さんへの愛情が、心のどこかに、心の深いところに、しっかりあるのならば。

 

ですから、ケンカするときは、存分にケンカをしたらよいのです。ときにはお互いひどく傷付け合うかもしれない。感情をひどくかき乱され、泣き、怒り、怒鳴り散らすかもしれない。

 

でも、家族のみんなそれぞれが、大切なこと、深いところでつながっているという実感、かけがえのない愛情を忘れないでいるのならば、必ず、戻ってきます。大丈夫です。

 

だから、

 

揺れるときは安心して揺れ、揺れながら軸を育ててゆけばよい。

 

私は、そう考えています。

怖れを手放し、信念を持つ

「自分の夢は実現できる」

 

そのように思うことができるとき、人はどんなことを感じているのでしょうか?

 

「自分への自信。安心感。信頼。」

 

これだと思います。

 

どんなにいろいろ経験を積んできたとしても、新しく何かを始めるときには、そこには、「大丈夫かな?できるかな?」といった怖れがつきまといます。

 

すべての怖れを手放す。

 

すべてとまではいかないまでも、

 

不必要な怖れは、手放す。

 

たとえば、恋愛において。

 

今まで誰とも付き合ったことがない人が、誰かと付き合うことになったとき。

 

怖い。

 

何もかもが怖い。

 

「どうしよう。」って思う。

 

でも、そのとき、相手が、「そのままでいいよ。」って言ってくれたら。

 

安心する。

 

その場で全ての恐れを手放すことはできないまでも、

 

楽になる。

 

「やってみよう。」と思う。

 

でも、もう少したつと、また別の恐れがやってくる。

 

今度は相手でなく、自分で、「大丈夫。」と思ったりする。

 

そんなふうにして、少しずつではあるけれど、自信を持ち、安心感が育ってくる。

 

 

<ほとんどは、生まれた「後」のこと>

 

 

私たちが持っている怖れは、「高いところに対する恐怖」と「大きな音に対する恐怖」という生命防衛本能以外は、すべて

 

「後天的に植え付けられたもの」だといいます。

 

だとすると、

 

足りていないところに意識がいく 。

 

やったことがないから怖い 。

 

周りの反応が気になり、批判されることを恐れる気持ちが強い。

 

などのことについては、その人自身が生まれ育った環境・社会の中で、親や周囲の大人たちなどによって、後から持つようになったということになります。

 

ですから、そのような恐怖を持つようになるかどうかは、親や周囲の大人たちの気持ち・態度・言葉がけ・行動などによって大きく左右されます。

 

子どもが大人になったとき、自分に対し確かな自信を持てるかどうか。

 

それは、その子がどれほどの能力を身につけてきたか、ということ以上に大切なことなのではないでしょうか?

 

小さな頃から、「○○くんは、ほんとに、何言ってもだめだな。なんで言うことがわからないんだ!」と批判されて育つ子もいれば、「○○ちゃんは、本当に大切な存在だよ。本当に大好きだよ。愛しているよ。」とほめられて育つ子もいます。

 

しっかりとした愛情を実感する。

 

子どもがそう思えるようになるためにも、私たち大人の存在はとても大きいのだと思います。

社会の問題に目を向ける

人は自分1人で生きているのではない。

 

私たちは小さい頃から、そのようにして育ってきます。

 

でも、本当にそうでしょうか?

 

中学受験。

 

確かに競争です。誰かと点数を争い、勝ったほうが合格する。負けたほうは合格できない。

 

その世界に、「他人のため」という言葉はふさわしくないのかもしれません。

 

しかし、私は学生の頃から様々な生徒を指導して来ましたが、ある共通点があります。

 

それは、

 

「自分のことだけを考えている子は、入試本番で力を発揮できない。」ということです。

 

たとえば、入試直前まで親子ゲンカばかりし続け、お母さんお父さんへの感謝の気持ちを忘れてしまっている。

 

あるいは、入試直前まで自分の気持ちを押し殺したままで親子でのコミュニケーションから逃げてきている。

 

どちらの場合も、共通点は、「自分の世界だけに生きている」ということです。

 

そうではなくって、言いたいことがあるなら、言えばいい。ケンカするならすればいい。でも、大切なこと、感謝の気持ちは忘れない。

 

そういう姿勢を持っている子は、必ず、結果を出します。気持ちいい形で、受験生活を終え、中学生活を送ります。

 

だから、受験に限らず、どんな場面においても、自分のことばかりでなく、少し、自分以外の人のことも考えてみる。

 

そういう姿勢はとても大事なのだと、私は思います。

 

 

<人は「自分のため」でなく、「他人のため」に動いたときに強くなる。 

 

 

「自分のため」だとなかなかできないことであったとしても、「この人のため」なら、できてしまう。

 

私の妻は、付き合いはじめたとき、「私は料理が苦手だから、だめなの。」と言っていました。

 

そして、「一緒につくるなら」ということで、自炊生活の長い私と一緒に料理をつくったりしていました。

 

でも、私は、「たまに」料理をつくるのは好きですが、毎日つくったりするのは、好きではありません。ですから、彼女が「今日も一緒に料理しよう。」と言っても、「うん。」と返事をするだけで、ちょっと手伝ったかと思ったら、もう、リビングに移動しています(笑)。

 

そんな様子を見かねたのか、彼女は料理のアプリを一生懸命検索して調べながら、僕が仕事から帰ってくるまでに料理をつくっていてくれる、ということをするようになりました。

 

そうしたら、どうでしょう!

 

めちゃくちゃ美味しいのです!美味しいだけでなく、体にいい。

 

今では、もう、「妻がつくってくれる料理じゃないといや!」というほどまでになりました。

 

もし彼女が、「料理なんて、できない。私には向いていないし、めんどくさいから、いや!」

 

とイヤイヤ料理をやっている状態であったなら、私が今のように妻の料理を食べることはなかったと思います。

 

「自分のため」もいいけど、「他人のため。誰かのため。」

 

これだと思いました。

 

 

<でも、無理に「人のため」はちがう。 

 

 

自分に余裕がないのに、人のために何かをしようとしても、無理が生じます。

 

無理に誰かのため、を考えて心の深いところでフラストレーションをためながら何かをしたとしても、満足のいく結果にはならないでしょう。

 

「日頃の仕事のストレスを発散するため、休みの日にはテニスに行きたい。」と思っているお父さんが、「休みの日には一緒に遊んでほしい。」と思っている子どもの言うことばかりきいていたらどうなるでしょうか?

 

きっといつも「テニスに行きたいのに我慢して家族サービスをしている」という悶々とした気持ちを抱えたまま、子どもとキャッチボールをすることになるでしょう。

 

もちろん、それでもいいのかもしれませんが、それよりは、「少し早起きしてテニスをして来てから、午後以降家族サービス」あるいは「奇数週はテニスで偶数週は家族サービス」などとしたほうが、みんなが気持ちよく過ごせるのではないかと思います。

 

子どもでもおんなじです。

 

小学生の子に、いきなり、「放課後に遊ぶのはやめて、地域に貢献するためボランティア活動をしなさい。」と言ったって、それは無理というものです。

 

でも、その子に「ゴミの問題って、とっても大事なの。私たち1人1人ができることをすることから始めましょう。」と言って、ゴミの分別を親子で一緒にやってみる。

 

そういうことを日常的にやっている子は、自らすすんで休みの日に、町内会で行われる一斉清掃に参加しようとするかもしれません。

 

「ゴミ問題」について出た社会科の宿題につき、プラスアルファで自学自習し、大人とはまたちがった形での意見を言ってくれるかもしれません。

 

そのようにして、自然な形で他人に目を向けるようになった子どもたちは、自分自身の世界から視野を広げ、他人のこと、地域のこと、社会のこと、日本のこと、そしてさらには他の国のことなどにも興味を持ち、自分の頭で考えるようになることでしょう。

<身近なことも同時に大事>

しかし、外のこと、大きなことにばかり目を向けて、身近なことがおろそかになるようでは、元も子もありません。

 

たとえば、「わたしは、将来、病気になった人たちを助けるために、お医者さんになりたい。」という子がいたとします。お医者さんになるために、小学校のうちから塾に行って、人の何倍も努力して勉強をしている。

 

それ自体は、素晴らしいことです。

 

しかし、「わたしは、人の何倍も努力して勉強している。だから、食器を片付けたりするのは、弟にまかせておけばいい。」なんてことを考えているのなら、本末転倒です。

 

「世のため人のため」を考えて勉強していると言っておきながら、日常生活では自分勝手そのもの。

 

あまりにも先のこと、あまりにも広すぎることを考えていると、気づかないうちに足元がおぼつかなくなる。

 

人とはみな、そういうものなのではないでしょうか?

 

先のことを見据えつつも、目の前のことも大切にする。

 

いろんな角度から見られるようになる「バランスの取れた力」。これこそがもっとも大事なのだと私は考えます。

<自分1人で生きるのではなく、互いに助け合い、刺激し合い、教え合う。>

そのようなバランスは、自分1人ではなかなか身につくものではないでしょう。

 

家族や友人、周りの人たちとともに助け合い、刺激し合い、教え合うなかで少しずつ育まれてゆくものだと思います。

 

《助け合う。》

 

たとえば、仕事をやっていてどうやっても行き詰まってしまう。同僚の誰にきいてみても、本に書いてあるとおりにしてみても、どのように考えどのように行動してみても、行き詰まったまま。

 

そんなときに、久しぶりに会った友達とお茶でも飲みながら、雑談してみる。ゲラゲラ笑いながら、しょーもない話をいっぱいする。ほぐされて楽になる。そうするとふっと力が抜け、それまで悩んでいたことなどが解決の方向に向かう。

 

何気ない会話の中で、自分では気づかないことを友達が違う角度から言ってくれたりして、思わぬひらめきが得られ、スムーズに事が運ぶようになる。

 

友達のほうにしてみれば、「たんに会いたかったから会っただけ。話したかったから話しただけ。」だったとしても、結果的に、助け合いの関係がそこに生まれていたりする。

 

《刺激し合う。》

 

たとえば、社会人になってから大学に通い始めたりする。昔とちがって記憶力も下がってきているし、集中力もなかなかもたない。すぐ疲れてしまう。もうやめようか。

 

そんなことを考えているとき、話すこともおぼつかない、体が不自由な方が一生懸命勉強している姿に触れる。そういう人を見て、一生懸命生きている人を見て、「愚痴を言っている場合じゃない。自分もがんばろう!」と自然に思えてくる。

 

《教え合う。》

 

たとえば、友達に赤ちゃんができたとする。初めての赤ちゃんなので、とっても不安。

 

そんなとき、その友達の家を訪ねてあげる。いろいろ不安なことがあるだろうから、話を聴いて、きかれたことについては答えて、きかれてないことについても教えてあげて、そうやって安心感を持ってもらう。

 

同じように、生徒と生徒が教え合う。

 

算数が得意な子は算数が苦手な子に、国語が得意な子は国語が苦手な子に。スポーツが得意な子はスポーツが苦手な子に。

 

上級生は下級生に。生徒同士が学年を超えて学び合い、教え合う。

 

教師が生徒に教えるだけでなく、生徒のほうから教師が学ばせていただくことがある。

 

教師と生徒が互いに教え合う。

 

子どもも大人も互いに教え合い、学び合う。

 

そういうことが、これからの時代は特に大事なのかな、という気がしております。

寺子屋において、本当は何が行われていたのか?

<ヨコの関係の大切さと危険性>

生徒同士が互いに助け合い、刺激し合い、教え学び合う。

 

こういうことができてくると、生徒同士は「学ぶ」ことが楽しくなってきます。「もっともっと」と思えるようになってきます。たとえば勉強なら、みんなで勉強しているときのことを考えて、1人で勉強する大切さにも気づいてきます。

 

ヨコの関係の大切さ。

 

しかし、そのヨコの関係が、単なる「仲良しこよし」になってしまっては意味がありません。

 

大人の場合。

 

いつも同じことばかり繰り返して、そのたびに人のせいにして終わりの人がいる。

 

本当は、その人自身に原因がある。そして、周りの友人たちは、その人のどこが原因なのかもわかっている。

 

でも、言わない。

 

なぜなら、その人に嫌われたくないから。その人を傷つけるのがこわいから。なんか、「悪い」から。

 

でも、その人がずっと同じことを繰り返し続け、そのたびに傷つくことになるほうが、長い目で見ればずっと「悪い」ことなのではないでしょうか?

 

そのときはその人に嫌われても、その人が傷ついたとしても、周りの友人たちに言われたことがきっかけになって、自分自身を見つめなおし、結果、自分が今まで乗り越えられなかった壁を乗り越えられるのだとしたら…

 

「さみしいから」という理由でお互いの傷を舐め合い、共感するばかりの関係が、一体いつまで続くのでしょうか?慰め合い、励まし合う関係ももちろん必要でしょうが、いつまでも現状維持にとどまる一方の友人関係を大切にしたいと思うでしょうか?

 

そうではなくて、「肯定して受け入れつつも、気づいたことはしっかり言い合う」関係を築けたとしたら。友だちが悩んでいるときには聴いてあげる。でも、見つめ直すべきところがあるのなら、そしてそれに気づいているのなら、勇気をもって、指摘する。そうした中で、その人だけでなく周りのみんなが気づき、学び、成長してゆく。

 

本当の意味でのヨコの関係。

 

「ともに成長し、一緒に向上してゆく」いい形のヨコの関係が大切なのは、大人も子どもも変わりないことでしょう。

<寺子屋における、教師の役割>

そういったヨコの関係を築くために大切なのが、寺子屋における「教師」の存在でした。

 

ヨコの関係。生徒同士、仲がいい。

 

でも、そこに何の方向性もなかったら。

 

何の目的もなかったら。

 

何の「芯」もなかったら。

 

単に「楽しんで終わり。楽しかったらそれでオールOK。」の世界になってしまうことでしょう。

 

勉強で言うなら、算数をやっていて、計算ばっかり得意になって文章題はさっぱりだったり、歴史について学ぶのに暗記にばっかり頼って理解がおろそかになっていったり、成績が良くなることにばっかり目がいって、「何のために勉強するのか」という根幹の部分には全く目を向けないままだったり…

 

その中に、「教師」がいた場合はちがいました。

 

自分自身にしっかりとした「芯」、確固たる「軸」を持った教師がそこにいた場合、生徒たちも自分自身の「軸」を探し、自らの「芯」を見出すようになります。

 

先ほどの例で言うなら、

 

計算力を土台として、文章題も少しずつ学ばさせ、総合的な算数力を鍛えてゆく。歴史なら、まず大きな時代の流れというものをおさえたうえで、記憶すべきところは記憶させる。勉強の成績ばかり気にする子どもに対しては、勉強をすることの本当の意味に気づかせ、それによって学習意欲をさらに上げてゆく。

 

寺子屋においての教師の役割とは、そういう「軸」を育て上げるために、まず自分自身が「軸」を持つ、ということでした。

 

そういう教師に指導を受けた生徒たちが大人になって、今度は教師になった場合。子どものときにヨコの関係の体験も同時にしてきているので、ヨコの関係とタテの関係どちらかに偏ることなく、両方のバランスがしっかり取れた教師となることができるのです。

 

このような関係を築けていた寺子屋の教師は、単なる「先生」というものをはるかに超えて、「人生の師」とも呼べる、かけがえのない存在だったのです。

 

現代において、「教師」とは、生徒たちにとって、どういう存在となっているでしょうか?

 

かけがえのない存在として、一生涯忘れることのできない関係を築けているでしょうか?

 

それとも、その場限りの、入試に合格するため、成績を伸ばしてもらうため、目的を達成するためだけの「単なる道具」にとどまっている存在でしょうか?

 

この問いに対する答えは、私たち1人1人がこれから作り上げてゆく社会そのものの中に見つかるのだと私は考えております。

 

ともに作り上げる社会。

 

みんなで知恵を出し合って、みんなにとって幸せな社会を創造してゆけることを、願っています。

 

 

 

 

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【第1章  THUNDERBOLT 稲妻】

 

【第2章  SWEETNESS 優しさ】